杉並アニメーションミュージアムにて、声優の野沢雅子・肝付兼太両氏と鈴木伸一館長のトークショーが行われた。
野沢氏と肝付氏はテレビ『ドロロンえん魔くん』(1973)、『うごけぼくのえ』(1974〜1976)、『銀河鉄道999』(1978〜1981)、『怪物くん』(1980〜1982)、映画『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』(1999)など多数共演している。
鈴木伸一氏は60年近いキャリアのアニメーター・アニメーション監督。藤子不二雄A『まんが道』(小学館)にも登場する(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。割愛している発言もかなりあります。ご了承ください)。
鈴木「当ミュージアムは開館10周年。スタッフが一生懸命やってくださって、ぼくはぽかんとして(笑)たまにこんなことをしてます。ここは日本でも唯一の公式なアニメーションのミュージアム。10周年にビッグなゲストを迎えてお話をお聞きしたいと思いまして。アニメの創成期から関わっていらっしゃる人たちをもっとお呼びできればいいんですけど、予算がなく(笑)。でも来ていただけて、ほんとに嬉しいですね」
野沢「オッス、オラ悟空(拍手)」
肝付「『怪物くん』が始まるざます(拍手)」
鈴木「私は東京アニメーター学院にたまに行って話してるんですが、入学式にたまにおふたりがいらっしゃる(笑)」
野沢「行くのはたまにだけど(笑)。年間に1回くらい」
肝付「自分は1か月に1回くらいかな」
【声優の誕生】
鈴木「ぼくはもともとアニメーター。おとぎプロというところにいたんですが、どう面白く動かすかが面白くて。当時はまだ声優さんはいなかった。そこでテレビアニメが始まって(声優が生まれた)。声が入ったときにアニメーションは生きる。声が入ることで魂が入るんですね」
肝付「NHKラジオに放送劇団があって、そこの人たちが声優と言われて、まさに “声の優れた人たち” で。ぼくはそんなに優れてなかったけど(笑)。
やがてテレビアニメが放映されて、俳優だった人が夜になって声の仕事をする。当時、仕事はセイユウって言うと「どこの支店?」とか訊かれて「田無市だよ」って(一同笑)」
鈴木「いまは声優の時代で、どんどん人気が上がってきましたね」
【藤子不二雄の原作アニメ (1)】
肝付氏は藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)原作のアニメの常連で、さまざまな役を演じている。『オバケのQ太郎(第1期)』(1965)が藤子作品初登場でガキ大将・ゴジラ役。野沢氏は伸ちゃんを担当。
肝付「『Q太郎』のゴジラ役は千田さんというマネージャーに紹介していただいたんですけど「あんた、スタジオの外ではおもしろいけど、スタジオの中ではつまんないね」って言われて。やっぱり緊張していてね。4日目くらいに原作の藤子不二雄先生がふたりで見に来られると。前の日は翌日のことばかり考えてて。当日、スタジオに入って変なアドリブをバンバンとばした。するとスタッフがOKサインを出してくれて。それが初めてのレギュラーですね。そのゴジラの流れで『ドラえもん』(1973)のジャイアン役も」
野沢「そのとき私はドラえもん」
1973年に日本テレビで初めて映像化された『ドラえもん』ではドラえもんが野沢氏、ジャイアンが肝付氏だった。
肝付「日テレの『ドラえもん』ではジャイアン役で、すぐ終わった。何年か経って(シンエイ動画プロデューサーの)別紙壮一さんが「今度『ドラえもん』が復活しますよ。それで役を変わってもらいます」と。ぼく、ドラえもん役はできねえなって思って(一同笑)」
野沢「私、別紙さんに「これ、当たる?」って言われて「当たりますよ!」って」
肝付「パイロット版で「お座敷釣り堀」という道具が出てくるのをやって(室内の)釣り堀に引っ張られて海へ行っちゃう。藤子先生のあの発想はおもしろいですね。
当時はアニメブームだったのに『ドラえもん』の初回視聴率0.04パーセント。別紙さんは編成局長の前で20とるって言ったらしいんだけど。20行ったらハのつくところへみんなで行きますって。それで20越えて、収録の後に「ご報告」って言うからハワイかと思ったら「函館」だと(一同笑)。2泊3日でバス旅行でした」(つづく)