私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

稲垣高広 × 川口貴弘 × 世田谷ピンポンズ トークショー レポート・『まんが道』(3)

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【『まんが道』の人物たち】

 『まんが道』には個性的なキャラが多数いるが、高校時代の敵役が武藤。眼鏡をかけてキザな感じで実にむかつく。

 

ピンポンズ「(印象に残るのは)…武藤(一同笑)。武藤がお金を借りに来たり、厭な感じでそれ(屈辱)をバネに原稿を描く。極悪でしたね。霧野さんが自殺したときも武藤が何か言う」

稲垣「武藤の顔のモデルになった方はA(藤子不二雄A)先生といまもお友だちで、性格は全然違うんだそうです」

 

 主人公・満賀道雄は上京後にマンガの神様・手塚治虫と対面。川口氏は生前の手塚先生に会われたという。

 

川口「うちの親がマンガ家にだけはなってくれるなと。それでも持ち込みをしていて、1984年に手塚先生の仕事場にいきなり作品を持って行きました。「ぼくの宝島」っていうのを描いて(一同笑)。手塚プロには壁にスタンリー・キューブリックスピルバーグの写真があって。『ブッダ』の原稿を見せていただきました。ケント紙じゃなくてコピー用紙みたいな薄い紙。

 最後にお会いしたのが1987年。病気になられる前で「ぼくはアニメとマンガをやっているけど、きみは、どっちをやっていったらいいと思う?」って。そんなことをぼくに訊かれても(一同笑)。答えられなくて固まりました。構想の話もいろいろされてて、後で手塚るみ子さんにそのことを言うと「私は聞いてない」と(笑)。このとき写真を撮ってくれたのが、亡くなられた片山雅博さんでしたね」

 

 筆者は片山氏の生前にトークを聴いているのだが、やはり手塚先生に「片山氏、どっちがいいと思う?」と訊かれて、どうしておれに?と緊張して困ったという話をされていたのを思い出した。

 トキワ荘で主人公の面倒を見るのが先輩マンガ家・寺田ヒロオ(テラさん)。上京にあたって手紙で細かくアドバイスをしたり、上京後にも叱咤激励したりしてくれる。

 

川口「ぼくはテラさんと文通していまして、お会いすることはなかったんですが。長文の手紙で進路指導をしてくれました。テラさんは自宅の離れにこもって制作されていてご家族にも会わなかった時期です」

 

 寺田氏は断筆され、亡くなるまで表に出ることは少なかった。その寺田氏の貴重な直筆の手紙を川口氏は持参されていた。「意見がうまく合うだけが友達ではなく、ちがう考えを言い合い、自分に無いものを知っていくことも大切です」という文面に『まんが道』に描かれた通りの人だったのだなと感嘆した。

【その他の発言】

稲垣「(『まんが道』で何度か引用される)「なろう なろう あすなろう、明日は檜の木になろう」の詩、檜にはなれないけど、努力をつづけるという精神。井上靖さんの半自伝的な小説『あすなろ物語』(新潮文庫)の言葉です。『あすなろ物語』は6つの章に女性がそれぞれ出てきて、冴子さんという女性は勝気なところが霧野さんと被るんですが、好きな男性と心中してしまう。恋がうまくいかなくて死を選ぶ。A先生が霧野さんを殺してしまったのはこの影響なのかな」

あすなろ物語(新潮文庫)

あすなろ物語(新潮文庫)

川口「(『まんが道』で主人公が投稿・執筆する実在した雑誌)「漫画少年」の表紙をデータ化したら(白地の)表紙の少年の顔が赤い。これは日の丸をイメージしたのかな。健全なものを守っていこうという。

 トキワ荘の図面を、誰も判らないのでやっとつくって出すと(住人だった)水野英子さんが違うと(笑)。(復元は)国家プロジェクトとしてやってもらいたいですね」 

稲垣「『ドラえもん』が、マンガを読むことの入り口になるという時期が長いですね」

川口「うちの子ども、上の子がドラえもんを初めて認識したときの衝撃(笑)。自分が読んできたマンガを子どもが面白がる。文化を継承していく。

 下の子がベレーを被っている人を見て「パパ、大変だよ。手塚先生がいるよ!」って言うんで(一同笑)るみ子さんが「いい教育してる」って。ただ藤本先生もベレーを被っているから手塚先生だと。下の子は手塚先生が『ドラえもん』を描いてると思ってる」

稲垣「それは教育の間違い(一同笑)」

 

 世田谷ピンポンズさんのミニライブもあり、代表曲「オレンジジュース」「アナタが綴る世界」などが唄われ、興味深く拝聴。

アナタが綴る世界 (世田谷ピンポンズ)

アナタが綴る世界 (世田谷ピンポンズ)