【向田邦子の想い出 (2)】
岸本「好き嫌いは激しかったです。ある俳優さんを指して「あの台本の次のページを知ってるような演技をするから私は嫌いなの」って言われたことがあって。そういう演技をしちゃいけないって思いました(笑)。『あ・うん』(1980)では台本はぎりぎりですけど最後までちゃんとありましたが、連ドラの『幸福』(1980)のときは私のシーンじゃないですけど、竹脇無我さんと岸恵子さんが動物園に行くところでロケの当日の朝になっても原稿が上がってこない。演出が鴨下(鴨下信一)さんで、とりあえず動物園で撮って、後で台詞を映像にかぶせたってことはありましたね」
岸本「「ままや」に毎週のように深町(深町幸男)さんやキャストのみなさんと行っていて、私は必ず向田先生の隣に座らされて「はいお刺身」「これ食べなさい」って世話を焼いていただきました。父が漁師だったんで魚を食べて育って、「ままや」で魚の骨を綺麗に残して、あるときコラムに書かれたんですよ。ちょっと批判めいていて、あれ何がいけなかったのかなと思ったんですけど。あんなにかわいがられてたのに(笑)。
『わが愛の城 落城記より』(1981)っていう作品では京都で向田先生が珍しく現場に来てくださって、嵐山でお昼ごはんをごちそうになったんです。撮影に戻ろうとしたら「加世子、次は子どもいるからね」って言われたんですよ。『あ・うん』の3作目の構想をされていて。次では母になっているはずだったんですね」
【『あ・うん』 現場のエピソード】
岸本「なんかつけ加えて」
菅野「ぼく覚えてるのは、深町監督が「裁縫の練習をしろ」と言われてスタジオの待ち時間で雑巾を縫ってた記憶があります。通して見て、雑巾がけは1回も出てこない(笑)」
岸本「そうでしたね。随分練習しました、スタジオで」
菅野「キャスティングした段階では、フランキー(フランキー堺)さんのスケジュールが3月末でデッドだったんですね。当時NHKは午後から収録でした。民放さんはキャストドライということで午前9時からシュートしますけど、NHKの場合はスタッフだけでドライリハーサルで、1時から収録。フランキーさんの段取りをしてまして、ホンはだんだん遅れてきた。フランキーさんはニューヨークだったかに行くというスケジュールになってて、でもNHKは組合も強かったので朝9時にスタートという条件を飲んでくれない。駆け回って、プロデューサーの小林猛さんに動いてもらって、1日だけ9時シュートで3~4時間は収録時間を確保して、フランキーさんはそのまま羽田空港にお送りしたという慌ただしい収録でした。
岸本さんで覚えていることは、ナレーションは上手くてびっくりしました。それとさと子の収録がみそっかすでした(笑)。収録はどうしてもフランキーさん優先で、その次は杉浦直樹さんと忙しい岸田今日子さん。お母さんの吉村実子さんとさと子さんはいつでも大丈夫ということで(笑)。空き時間は申しわけないと」
岸本「いえ、愉しかったですよ」
菅野「(吉村実子氏を)ぼくらはジコちゃんと呼んでたんですが、いかがでしたか」
岸本「すごくかわいらしい方で、生真面目でした。「私台詞ちゃんと入ってるかしら。相手してみて」とかかわいがっていただきました」
菅野「出演交渉でいちばん難しかったのが実子さんでした。深町さんがはるか昔にオリジナルの単発ドラマ『駅』(1965)を撮ったときのヒロインで、昭和の女らしいたたずまいがあるけど固いと(笑)。あの固さを何とかしたいと言われてたんで、吉村さんは気にして岸本さんを練習相手に。岸本さんがフランキーさんや杉浦さんの役をなさって(笑)。4週分を1か月半くらいで撮ったんじゃないでしょうか」
岸本「ずっとNHKにいたのは覚えてます(笑)」
菅野「向田さんの字は読めない。TBSさんは読める印刷所を抱えていて、そこに頼むのはNHKのメンツにかかわるというか。自分のところにプリントセンターがありましたから。
12月25日に打ち合わせがあって、その1週間前にシノプシスができました。シノプシスの項目に後にサブタイトルになる狛犬とかがあって、その中に「犬の目に眼帯」って小見出しがあったんですよ。のらくろか(笑)って映像が浮かびました。向田さんの台本はト書きも含めて映像が浮かびやすい。名脚本家は、早坂(早坂暁)さんとか目に浮かぶような進行やリズム感で書かれてる。1時間くらい読んでくうちに「犬の日に腹帯」だったんですね。印刷所が間違えた(笑)。人間って不思議なんですが、やがて音符みたいにのたくった記号が読めるようになるんですね。ただ1か月くらいするとぱたっとできなくなって、次の年にこれ読んでくれって言われても全く読めなくなってた(笑)」