私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

森本レオ インタビュー “森本レオの場合”(2014)(1)

 映画『青春の蹉跌』(1974)や『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)、テレビ『人形劇 三国志』(1982)や『人形歴史スペクタクル 平家物語』(1993)の声の出演、『きかんしゃトーマス』(1984)のナレーションなど多彩な仕事で知られる森本レオは長年、高円寺に住む。永島慎二原作のテレビ『黄色い涙』(1974)は森本自身が企画・主演を務めており、高円寺近辺(阿佐ヶ谷)が舞台だった。

 2014年に森本が高円寺について語るインタビューがあり、いまは見られなくなったので以下に引用したい。聞き手は神田桂一氏が務める(明らかな誤字は訂正し、注釈は本文内にねじ込みました)。

――レオさんは、高円寺に住み始めてどれくらいなんですか?

 

森本:43年ぐらい前じゃないかなあ。

 

――きっかけとかありますか? 高円寺を選んだ理由とか。

 

森本:きっかけは、漫画家の永島慎二さんが阿佐ヶ谷に住んでて、井伏鱒二さんや太宰治坂口安吾さんたちの残り香もしていたからかな。新宿にもほどほどに近いし(笑)。

 

――その時代は新宿が文化の拠点でしたもんね。

 

森本:そうだねえ。風月堂(新宿にかつてあった名曲喫茶。のちに有名になる芸術家が多数通っていた)にはいっぱいヒッピーが居て、ジャズ喫茶もたくさんあって、安酒で気を失って路上で転がってるのが最先端のおしゃれだったねえ(笑)。

 

――ではそこからずっと高円寺なんですね。

 

森本:ですねえ。怠け者なんで、一度座ったらあまり動きたくないんです(笑)。

「すごいレアな映画を、画用紙4枚画鋲で壁に留めたスクリーンで観ていた。宝物のような時代だったなあ」

――そのころの高円寺ってどんな町だったんですか? 今と全く違う?

 

森本:いや、違わなくはないかな。みんな、素朴に素直なんですよ。だから愚直に要領が悪かったけど、その分人に優しかったんだ。フォークソングが全盛で、学生街の喫茶店では、PPM(ピーター・ポール・アンド・マリー。アメリカのフォークグループ)やブラフォー(男性だけのフォークグループ)をバックに、アポリネール(フランスの詩人・シュールレアリズムの生みの親)だのロートレアモン(同じくフランスの詩人。シュールレアリズムに大きな影響を与えた)だの、非ユークリッド幾何学の一種)だのミニマリ(最小限のモノが美しいという哲学の一種)だの家具の音楽(フランスの作曲家・エリック・サティ室内楽曲とその思想そのもの)だのと。まあ知らない言葉の富士急ハイランドだったよ(笑)。時々永島さんまで来てくれたりして、毎晩徹夜ですよ。でもそれが楽しくてさ、どれだけ学ばせてもらった事か。

 東京演劇アンサンブルっていう立派な劇団もあって役者はうようよ居たし、絵描きや詩人や漫画家に歌うたい達、学生運動家も当たり前に居たね。コルボ・シネマテークと言う映画の輸入グループもあって、『ラ・ジュテ』(60年代のクリス・マルケルによるフランスSF映画)や『黄金時代』(ルイス・ブニュエルによる戦前のフランス前衛映画)や、ポランスキーポーランドの映画監督。『水の中のナイフ』など)やスピルバーグの短編や、すごいレアな映画をいっぱい見せて貰った。コルボのぼろいアパートの、画用紙を4枚画鋲で壁に留めたスクリーンで(笑)。宝物だよ。
 みんなお金がなくて、いつもピーピーしてたけど。とりあえずどんなに貧しくとも、死ぬまでずっと、「可能性と言う存在」で居ようぜと、密かに覚悟していたような気がします。諦めない事。それがたぶん、「無頼」の意味なんだ。

 

――時代は変われど、今の高円寺とほとんど一緒な気がします。

 

森本:うーん、でも無頼派から無精派になっちまってるかもな(笑)。

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「高円寺は、昭和無頼派の残り香で生まれた街なんだ」

森本:最近は歌をうたっている人くらいしか知らないけど、なんて言うか、なまけ者だよー(笑)。「歌と祈りは内緒の兄妹なんだよ」、みたいなネタ振っても、「勉強なります!」で終わっちゃう。うざいんだろうなあ、知識は知恵の肥やしなのに。でもアートも野良仕事の一種なんだからさあ、ちゃんと耕そうよ自分の畑を(笑)。
 昔の人たちはドンチャンしながらも、考えるという作業自体を、楽しんでいたね、どん欲に。歌って何だろう? 感受性ってどこから来るんだろう?  愛って何? 哲学は? 要は、毎晩ブレインストーミングな日々で、それが新鮮だったんだ。ぼくが学んだ広告の基本が、少し役に立ったみたいでしたね。もう今はギンズバーグアメリカのカウンターカルチャーを代表する詩人)も知らないもんねえ。

 

――え? 広告やってたんですか。

 

森本:うん、元々引っ込み思案なんで、ひっそりコピーライター志望だったんだ。でも当時住んでた名古屋では、まだコピーにお金を払うと言うルールが無かったんです。で、呆然としていたら、運良く役者にされちゃった。

村上春樹青年が、公園の夕陽のベンチで茜色に輝いていた」

森本:まあ、コピーライターも役者も、みんな言葉をはらみ直す作業だったから、応用が利いたんですよ。だからそんな、考え方その物を発明しちゃおうぜ、と言う遊びに、みんな食いついてくれたんです。

 

――喫茶店とかで?

 

森本:駅の近くのガード沿いに、いつもファドやフォルクローレシャンソンを古いスピーカーで品よく流してくれている、ロバという名の小さな喫茶店があってね。客が居る間はずっと開けていてくれる、優しい店だった。噂では、ママさんは遠い日のシャンソニエだったそうだ。そのママさんの人徳で、まあ、たくさんのアーティスト志願が行き交っていた。香港から来ていた作家志望者は、チャン・イーモウ(中国の映画監督。『紅いコーリャン』など)のシナリオライターになったと言うし、うちで留守番していた浅草のテル坊はゲームで当てて王子様になっちまった(広井王子ゲームクリエイター)。つづく

 

 以上、“杉並区高男寺三丁目”より引用。

 

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