もとは盟友関係でやがて非難し合い、いまはまた共著を出したりするようになった佐高信と田原総一朗。ふたりには冠婚葬祭をめぐる共通点がある。
田原は政治家などに顔が利く大物司会者という印象だが、かつて「夢のエネルギー」と謳われる一方で反対も根強い原子力発電を取材したことを契機に「賛成派と反対派の両方に取材する」のが重要だと考えるようになったのだという(『人生は天国か、それとも地獄か』〈白秋社〉)。
「賛成と反対の両方に必ず取材する————これは、皇室問題や沖縄のアメリカ軍基地問題など、すべてのテーマに一貫していることです。
私のこうしたやり方を、「田原はどっちつかずだ」などと非難する人もいます。しかし、私は活動家ではありません。常に、賛否両論に属する二つのサイドに取材しなければ、ジャーナリストとして、真実に近づくことはできません。
テレビ局を辞めてから、フリーのジャーナリストとして四十有余年。政治家、経営者、右翼、左翼、学者、多くの人たちに取材し続けてきましたが、この信念だけは貫いてきました。少しこそばゆいですが、信念を極めた、といっていいのかもしれないと思っています」(『人生は天国か、それとも地獄か』)
「二つのサイドに」当たるというからには権力側にも当然アタックするわけだけれども、取材を重ねる過程で田原は広範な人脈を築いていった。長女の結婚式には政治家を呼んだそうで、月刊誌「噂の真相」の岡留安則編集長はインタビューで突っ込んでいる。
「岡留 そういうところ(引用者註:政治家の出演する討論番組など)にいると、ジャーナリストは政治家や官僚を取材するうちに、自分まで偉くなったような気になっていく。政府の諮問委員会に新聞社の幹部なんかが入るのも典型的ですよね。
田原 それは大間違い。新聞社と違って僕は現に何もやっていませんけどね。僕は長くやっていますから、親しい政治家がたくさんいます。だけど政治家とは緊張ある関係を持たなきゃいけない。何も頼まない。何も頼まれない。そこが大事だし、いくら親しい政治家でも言うべきことはきちんと言う。
岡留 だけど田原さん、『サンプロ』(引用者註:『サンデープロジェクト』)がスタートする前だったと思うのですが、娘さん(長女)の結婚式に政治家を呼びましたよね。
田原 あれはね、もうはるか前の話だけれども、あのときは前の女房が亡くなった直後で、長女の結婚式をにぎやかにしてやりたいという気持ちからですよ。親ばか(笑)。その後、一度も呼んでいません。
(中略)
岡留 でも子供の結婚式に政治家を呼ぶというのは、ジャーナリストとしてはいかがなものでしょうかね。
田原 あれは僕がまだ力がないときの話ですよ。そのころ僕は企業の取材をやっていたんですから。政治家とそういう関係が薄いときの話ですよ」(「噂の真相」2000年4月号)
80年代のことのようだが「関係が薄い」と言っても、長女とは面識があまりないであろう政治家を結婚式に呼んだ事実があるわけだから、当時の田原には既に相当な結びつきがあったと推察される。その田原を「権力者のマイク」同然だと長年に渡って非難したのが佐高信だった。田原は「佐高信という人物は、私を批判することを売り物の一つにしている評論家である。私の批判を表紙にした本も何冊か出しているはずである」「こんな捉え方もあるのかと、批判を新鮮に感じることもある」と評した(『激突!朝まで生対談』〈毎日新聞社〉)。
その佐高は、実父の葬儀に政治家を呼んでいる(以下の通り、佐高の述懐によれば土井は自発的に来たようにも思える)。2003年6月、佐高の父の葬儀が山形県酒田市にて行われた。
「葬儀に土井たか子さんや高杉良さんが来てくれて大恐縮。酒田市警始まって以来の警備になったとか」(『小泉純一郎を嗤う』〈毎日新聞社〉)
佐高は別に田原のように両論併記的な方針を表明しているわけではない。社会民主党の長老的な土井が党の支持を公言する評論家の身内の葬儀に出席しても、出席自体は難詰される筋合いではない…かもしれない。しかし土井の関与?はそれだけではなかった。
「土井が私の父の葬儀に、わざわざ山形県酒田市まで来てくれたのは2003年春だった。私はそれを酒田警察に知らされた。当時、社民党党首だった土井の警護のために、警察はいろいろ手配をしなければならないのである。
それで来てくれることを知った私は、土井に弔辞を頼んだ。急のことでもあり、父とは面識のない土井は、さぞや困ったことだろう。
それはこう始まる。
<謹んで佐高兼太郎先生に哀悼の思いを捧げます。
私はとうとう佐高兼太郎先生にお目にかかることができませんでした。しかし、不思議なことに一度もお目にかかることがなかったにも拘らず、ずーっと前からよく存じ上げているような気持ちを抱いておりました。
それは、不正や理不尽なことには容赦しない辛口の評論でその名も高い佐高さんが、お父さまの話になるとまったく頭が上がらないことを知った頃からです。十年、いや、もっと前からになりましょうか。お父さまの話の度毎に親思いの「お父さん子」、「子ぼんのう」に対して「親ぼんのう」というにピッタリと思っておりました。>」(護憲を貫いた女性初の社会党党首 土井たか子の正義 http://diamond.jp/articles/-/63266?page=4)
佐高の父と土井とは面識がなかったのだった。弔辞とは、通常は故人と親しかった者が読むのではないのか。女性初の衆院議長を務め国民的知名度を持つ土井が葬儀で弔辞を読み、警察が「始まって以来の警備」ともなれば「親ぼんのう」の息子としてはさぞや痛快であろう。田原のように自嘲していない分、佐高のほうにたちの悪さを感じなくもない。
山口瞳だったか、あるいは大学受験のころに読んだ(笑)漢文だったか、人間とは常に値踏みされるもので葬儀の大きさでその人物がどの程度の器量か判る、というようなことが書かれていた。そうだとすれば著名な政治家がお出ましになって参列者が唸ったら、故人の人生最後の彩りとしては何かしらの意味があるのだろう。
さて、筆者には身内の冠婚葬祭に有名政治家を呼ぶような甲斐性はもちろんなく、自分の死後の葬式もわびしいありさまであることは必定である。田原総一朗や佐高信の俗気に苦笑いすることはできても、糾弾する資格などあろうはずもない。むしろ世にも華やかな人脈を讃美せずにはいられぬではないか。