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野沢尚と麻生千晶・『眠れる森』“抗議” 事件(2)

この数年、地道にやってきた仕事に少しずつ評価がついてくるようになった一方で、鋭くこちらを揺り動かしてくれる放送批評にめぐり逢いたいと切実に思うようになった」(「新潮45」1999年2月号)

 

 1997年に『破線のマリス』(講談社文庫)により第43回江戸川乱歩賞を受賞した野沢尚は、同年に集大成的な大作ドラマ『青い鳥』も発表。注目される一方で不安感も増していたようである。

 

世間にもてはやされて「権威」を得た作家は、その「権威」に歯向かう批評家も少なくなると、周りには「イエスマン」ばかりが揃い、自分の作品が劣化していることに気づきもしない。そういう形で衰えていく作家を何人も見ているから、僕は、少しくらい傷ついても、巧みにこちらの欠陥を指摘してくれる批評を求めるようになったのかもしれない」(「新潮45」)

 野沢は麻生千晶と「対話したい」という思いであったそうで「A(引用者註:麻生)さんは自分の毒舌批評に対する単なる抗議文だと思ったようだが、それは違う」と強調する。

 

すると翌日、当人から電話をもらった。

 僕は本人の承諾なしに電話でどういう会話をしたのか公表するような人間ではないから、ここでは詳しく書かない。

 電話の途中で、A(引用者註:麻生)さんはエキセントリックになられたから、「今あまり突っ込んで議論するのは得策ではないな」と僕は感じ、そこそこのところで会話を切り上げたものの、「また何かの機会にこの人と話してみるのも、悪くないかもしれない」ぐらいは思った」(「新潮45」)

 

 『眠れる森』(1998)のシナリオ集(幻冬舎文庫)には白熱の議論だったというように書かれていたが、この反論でのニュアンスは異なる。率直に言って、制作の真っ只中の興奮状態にあった野沢が手紙や電話で自身の理念を十全に伝えることができていたのか、筆者は疑問を感じてしまう部分もある。やがて『眠れる森』が打ち上げを迎えた日、野沢は「新潮45」の麻生の記事を知らされた。

すぐに読んだ。愕然とし、落胆し、無力感に陥った。パーティを楽しめる気分ではなくなった。

 僕が新潮45に対して厳重に抗議をしたのは、A(引用者註:麻生)さんの言説についてではなく、ただ一点だった。

「どうして個人的に宛てた手紙を、書いた本人の承諾なしにAさんは公表したんですか」

 人からもらった手紙をむやみに他の人に見せてはいけません。これは我が家の小学二年生の息子にでも分かる世間の常識だ」(「新潮45」)

 

 しかし「新潮45」の担当編集者や編集長は突っぱねたという。

 

彼らは、A(引用者註:麻生)さんのやり方には少々配慮がなかったのは認めるが、私信から引用した部分が誤りでない場合、それがプライバシーを侵害しない場合は公表しても構わないのではないか、という見解だった。

 淀みの中から真実を掴み取る時は、少々、こちらの手も汚れなければならない。世間の常識にこだわっていたのでは、先鋭的な論文は書けない。

 という考えのようだ」(「新潮45」)

 

 野沢にとってショックが大きかったのは手紙をさらされた件だったらしい。批評家が対話の相手でなく利用しやすい獲物として自分を認識していた衝撃かもしれない。

 

物事には、「世間に対して明らかにする事柄が事実か事実じゃないか」という基準だけでなく、「事実であっても、軽率に明らかにしてはならないこともある」という基準も存在するはずだ。

 私信の無断公開がかろうじて許される基準というのは、犯罪や政治の闇を暴くことで読者に公益性がある場合、だけではないだろうか。

 だとすると、実作者が批評家に宛てた私信にどんな公益性があったのだろう。「こいつがあんな悪口を言ってましたよ」と暴露することで、読者の野卑な興味を満たしただけではなかったか」(「新潮45」)

 

 筆者は野沢ファンで、麻生などよりも野沢の側に極力立ちたいとは思う。「実作者が批評家に宛てた私信」を暴いても公的利益がないというのは一理ある。だがこの手紙はメディアを通じてほぼ初めて出逢った者同士によるやり取りであり、親族や友人に送ったわけではない。「新潮45」の編集部とはまた別の捉え方だが、非公開の「私信」であっても公的な性格を帯びるのは避けられないのではなかろうか。敬愛する作家に対して申しわけないけれども、野沢の認識は誤っていたのではないか…と愚考する。おそらく麻生には、自分に対して送りつけられた「抗議文」が「事実であっても、軽率に明らかにしてはならないこと」だとは全く映らなかったのであろう。

 放送中に高揚感につつまれて議論を仕掛けてしまった野沢は「今回の出来事は僕にとって、批評家サイドから、「実作者と話すことなどない」と拒絶されたに等しかった」「だが…この一抹の淋しさは何だろう」と一転して鬱状態に沈み込んでいった。

 正義感が強く自らの作品について純粋に自問する野沢にとって、この『眠れる森』事件は孤立感を深める災禍であった。その後に野沢がたどった道に影響を与えたのではないかと、筆者は想像している。

 

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