私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

なんとなく、ミサイル・「どことなくなんとなく」「まるで世界」

白い夜があった……

 

 1975年に発表された藤子・F・不二雄「どことなくなんとなく」は、同じ会社や同じ家族でも何かが違う…という恐怖短篇である(『箱舟はいっぱい』〈小学館文庫〉所収)。主人公は不思議な「白い夜」の夢を見て以来、日常に違和を覚えるようになった。

 

そうだ! 実在感だ!!

山も林も草原も……

なにもかもいっさいがっさいだ……

なにもかも実在感がないんだよ!!

 

 友人と山登りに来た主人公・天地はいま目の前にある山も林も、日々の生活にも「実在感」が描けないという。

 

なにかにすがりつきたかった

生身の人間を感じたかった

この世が実在することを自分の肌で確かめたかったんだ

 

 主人公はこの世が「実在」しないのではないかという恐怖が「生なましい実感で迫ってくる」という。「実在感」のなさが「生なましい実感」で、とは不両立ではないかとも思うが、主人公の抱える苦悩・孤独感が深刻だという強調であろう。また主人公は「まったくハンで押したような毎日のくり返しになってしまった……」「あの夜をさかいに……」と日常の度を越した単調ぶりを怖れる。

 筆者が後になって想起したのはテレビ『みんなのうた』枠で流れた「まるで世界」(1984)だった。

 

朝 目が覚めたら世界が変っていた

 空は青くて まるで空みたいだったし

 雲は白くて まるで雲みたいだったし

 さわやかな風まで

 まるで風みたいに吹いてるんだ

 母さんにおはようと言ったら

 母さんもおはようと言った

 父さんにおはようと言ったら

 父さんもおはようと言った

 まるで僕の母さんと父さんのように

 どうしちゃったんだ世界は

 まるで世界みたいじゃないか」(作詞:別役実 作曲:池辺晋一郎

 

 『ルパン三世』(1971〜)やクリント・イーストウッドの吹き替えで知られる山田康雄が軽快に唄う「まるで世界」には「どことなくなんとなく」との共通性が読み取れる。寝て起きたら世界が変わっていて空は「まるで空みたい」で両親は「まるで僕の母さんと父さん」みたい。同じ語が反復されて意味不明だけれども、つまりは空も雲も両親も世界もそれらしいだけで「実在感がない」ということではあるまいか。

 実感なき世界は破局へと向かう。「どことなくなんとなく」の世界は、実は「一発の核ミサイルの誤射が引き金になって」既に滅んでいた。主人公を取り巻いていたのは、宇宙人が地球遺跡にて発掘した細胞から「投影」して「再現」した映像だったとラストで明かされる。主人公の覚える齟齬や単調感は理由なきものではなかったのである。「まるで世界」の背景となるアニメーション(大井文雄)でもミサイルが飛んでいく映像がある(いや、ロケットのように見えなくもない…)。歌詞でミサイルが言及されるわけではないが、やがて滅びることをなんとなく予期させるともとれる。

 「どことなくなんとなく」は1975年、「まるで世界」は1984年と間隔は空いているけれども、まだ米ソ冷戦の時代で核戦争が人類を全滅させるという危機感が強くあった。筆者はそれを同時代で知る世代ではないのだが、当然近年の北朝鮮の脅威を上回るものであっただろう。

 そして「どことなく」の藤子・F・不二雄も「まるで世界」の作詞者である別役実も1930年代生まれである。戦中戦後に少年時代を過ごした両氏にとって、一億総中流の豊かさを享受できるようになった70〜80年代の繁栄は否定されるものではないにしても、戦火を逃れることもなければ飢えることもなく目前に “生存の恐怖” のない日々は一炊の夢のように「実在感」なく映っていたとは考えられないだろうか。それに加えて核ミサイルの脅威が叫ばれている以上、経済的活況などその場限りの平和ではないのか。

 ただし二者の展開は異なっている。「どことなくなんとなく」の主人公は「この世に実在するのはぼくの意識だけで……」「まわりをとりまくものいっさいがぼくの意識が生み出した妄想じゃないかと……」と語る。実感のなさが天地創造に結びつくのは藤子・F・不二雄らしい。藤子・Fは代表作『ドラえもん』の「地球製造法」(『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん3』〈小学館〉)や短篇「創世日記」(『創世日記』〈中公文庫〉所収)、映画原作にもなった『ドラえもん のび太の創世日記』(小学館)など世界をつくり出すモチーフをくり返し扱っていた。 

 一方、別役実は「空間をフィクションとしてとらえるという感覚」があると自己分析する。

 

日本のものを読んで、僕らがいちばん違和感を感じるのは日本の風土の連続線上で物語が展開しているということなんです。童話なんかでね、僕がいちばん素直になるほどと読めたのは宮澤賢治なんです。宮澤賢治はやっぱりフィクションとしての目で物語を展開していたのではないか。そう考えるとわりと納得できる。坪田譲治だと日常的な日本の風景のなかで物語が展開されている。だからフィクションになるわけがない」(「シアターアーツ」2004 秋号)

 

 別役には「日常的な日本の風景」でない世界観を創出する意識が強くあった(事実、別役の戯曲や童話を読むと無国籍の感覚がある)。ただし、藤子・Fのように自分が世界の創造主であるという展開にはならない。

 

僕、「演劇は仕掛けだ」と言ったんですよね。仕掛けだけの芝居。そこにどうしても、たとえばメッセージ性が入ってきたりストーリーが入ってきたり、もっと極端にいえば教訓が入ってきたりということになる」(「シアターアーツ」)

 メッセージや教訓などではなく「仕掛け」重視の別役は「内容が先行しない演劇というのは理想ですよ」と語る。演劇にまつわる発言だが「まるで世界」に通じるように感じられる。実感なき世界を表すのは同語反復の「仕掛け」というわけである。

 歳月は流れて藤子・Fも別役も鬼籍に入り、経済の衰えたわが国の社会生活は昭和後期のような「実在感」なき豊かさとは隔たった。一方で北朝鮮のミサイル危機や戦乱はつづく。筆者はかつての天才作家たちの予言がどのような形で的中するのか、日々おののいている。