「映画すら追い抜かれるのでは」という言を見るに高倉健にとって、映画がテレビより格上というのが “常識” なのだろう。
ただし高倉にとって、去った妻への未練を抱えながらサービス業に挑むというのは過去の映画作品にはない役柄だったと思われる。脚本の山田太一は語る。
「あの話は健さんだから面白い、つまりしゃべらない人がしゃべらざるをえなくなるから面白いんで、別の人でしたらああいう話にはならなかったでしょうね」(「広告批評」1992年6月号)
高倉も「次は東京地検特捜部なんて役をやってみたいですね」(「毎日新聞」1992年4月6日)と話しており、テレビならば過去にない役どころができそうだとこの時点では思っていたと推察される。
ラストは突然?娘(白鳥靖代)のナレーションが入り、みなが “チロリアンワールド” の開園に臨むところで幕を閉じる。山田は後年の講演で「変な終わり方」だったと自嘲気味に語ったこともあった。
「ラストはナレーションなどを使って、一見さわやか風でしたけど、問題がすっきり解決したわけでなく、実に生臭くて、いやな終わり方と言えばいやな終わり方ですね。他の男と駆け落ちした奥さんが、今度は前の夫のところに戻って、しかも、三人は一見仲よく同じ町に暮らしている。あれに対しては、あいまいさに反発を感じるという方や、あれを「うまくいった」と受け取って、そううまくはいかないよ、とか、古典的な気持のいい終わり方だった、などという意外な感想までいろいろな声をいただきました」(「広告批評」)
ドラマ全般は概ねリアルなタッチで進行するが、山田は終盤に「閉山していなくなったはずの炭鉱夫たちが大勢歩いてくる幻をみんなで見る」という趣向を凝らした。
「非現実の世界って、まだ馴染まない人も多いからメジャーな時間帯で長いと拒否されるけど、それとなく、番組の終わりのほうとかに入れたりして。『チロル…』のときも、途中で見たくない人はとっくにチャンネル換えてるだろうし、ここまで見てくれたということは、終わりまで付きあおうと思ってくれてる人たちだから、ちょっとわがままを許していただこうという気持であのシーンを入れました」(「広告批評」)
児童文学者の今江祥智は、山田の『遠くの声を捜して』(新潮文庫)の解説にてこう評する。
「先日見たテレビドラマ『チロルの挽歌』では、廃坑になった山で働いていた抗夫たちの「亡霊」群が誰にも見えるようなかっこうで描かれていた。日常的なテレビドラマの中にいきなり顔を見せた非日常の世界に、主人公の高倉健さんは別に驚いたふうもなかったが、私は吃驚した。山田さんのテレビドラマがひょっこり変身するのではないかという予感を持ったせいである」(『遠くの声を捜して』)
高倉健を招いてNHKとしては総力を結集して制作したのであろう『チロルの挽歌』だが、大ヒットしたというわけでもない。山田はドライに語る。
「よかったとか面白かったとか言ってくれたりする人もいましたし、面白い仕事だったけれど、でもやっぱり二八パーセントなんて高視聴率は取れない。取れないのが自然だと思うし。『チロルの挽歌』は一四パーセントぐらいかな。まあ、NHKの八時台のドラマとしては悪くないほうなんでしょうけれど。それでも、視聴率がたいしたことなかったから、たいしたことないドラマなんだろうという空気が残る」(「広告批評」)
ちなみに大原麗子は『チロル』への愛着が深く、晩年も見返し、そして仕事復帰するなら山田脚本でと要望していたという。クライマックスで譲り合ってかっこつける男たちに対して大原が冷や水を浴びせるような言葉を吐くが、そのように男性側に異議申し立てをするような女性像というのが大原には演じていて新鮮だったのかもしれない。
やがてバブルは崩壊し、劇中の登場人物たちもあの後で厳しい事態に陥ったのではないかと想像される。
歳月は流れて『チロル』の出演陣の多くは鬼籍に入った。山田はエッセイ『月日の残像』(新潮文庫)の中で大原を追悼している。
「(青山葬儀所での別れの会で)彼女の女優生活を十数分にまとめた映像が流されたのである。華やかに、いいところをよく選んで編集したビデオだった。私は見ているうちに、これは映写が終ったら拍手をしようと思った。孤独な死を迎えた女優を囲んだ最後のみんなしての集まりではないか。よく生きぬきましたね、と拍手してなにが悪いだろうと思った。
終った。拍手をした。私ひとりだった。なんという非常識というように見る人もいた。平気だった」(『月日の残像』)