私の中の見えない炎

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野沢尚と山田太一・『烈火の月』『反乱のボヤージュ』

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 破線のマリス』(講談社文庫)、『深紅』(同)などで知られる脚本家・作家の野沢尚。野沢はインタビューなどで同業の巨匠・山田太一への敬意を幾度も語っていて、ご両所が好きな筆者は何となく嬉しい気がしたものである。

 出典がいま見当たらないのだが、野沢は若き日に山田太一倉本聰向田邦子を「秘か」に尊敬していたと2000年ごろの新聞記事で語っている。かつての山田、倉本、向田は大和書房などからシナリオ本が次々刊行されており、スター作家として遇されていた。別に「秘か」でなくとも、シナリオライター志望者が尊敬の念を公言しても何らおかしくもない気もするが、プライドの高い野沢としては国内の現役作家を好きだと言いにくかったのかもしれない。

 山田の代表作であるテレビ『早春スケッチブック』(1983)では、最終話ラストのモノローグでこう語られる。

 

ぼくには、二人が、頑張って自分を越えようとしているように見えた。自分を克服して、自分以上のものになろうと、はりつめているように見えた」(『早春スケッチブック』〈里山社〉)

 

 型破りな男(山崎努)と凡庸な男(河原崎長一郎)。対照的なふたりが、それぞれに自分を変えようとする。その姿を息子(鶴見辰吾)が見つめる。

 

少なくとも、ぼくは変わらなければならないと思った」(『早春スケッチブック』)  

 野沢が第17回向田邦子賞を受賞した『結婚前夜』(1998)では、変わろうとする主人公(夏川結衣)が描かれている。それは山田の『早春スケッチブック』の影響かもしれなかった。

 

今のままの私でいいって、高杉君、言うんです。好きな人のために自分を変えたいって思っているのに、変わらなくていいって言うんです……」(『結婚前夜』〈読売新聞社〉)

 野沢が、山田の『男たちの旅路』シリーズを意識したと自ら明かしているテレビ『反乱のボヤージュ』(2002)。自身の同名小説(集英社文庫)を自ら脚色した。

 

「(『反乱のボヤージュ』では)男たちの旅路』の鶴田浩二さんが、特攻隊の生き残りでシラケ世代の若者たちを嫌っているという、それに通じるキャラクターは今ないかみたいな発想を最初しました。ですから、このドラマが出来た時に、テレビ朝日さんにお願いして山田太一さんにテープをお送りした。感想のお手紙をいただいて、今、こういう熱気のあるドラマは珍しいと褒めていただいて嬉しかった」(「ドラマ」2002年5月号)

 

 このインタビューでは、『男たちの旅路』の「シルバーシート」について「ほんとに素晴らしいディベートドラマだったんですね」と称揚する。ちなみに野沢の『ネット・バイオレンス 名も知らぬ人々からの暴力』(2000)は主人公(夏川結衣)とネットを駆使する男(北村一輝)との議論がクライマックスで、やはり『男たちの旅路』を連想させた。

 野沢は別のインタビューでは、山田太一の創作の姿勢に対しても敬意の念を話している。 

 

僕は山田太一さんの生き方を手本にしてる部分があるんです。あの人も脚本と小説を往きつ戻りつする。いいなぁと思っていたんです。で、ゆっくりお話しする機会があった時に、「自分で小説書いて、自分で脚本にするのはやめたほうがいい」って言われたんですよ。小説を書く時に映像的なシナリオの構図をイメージするようになるから、小説が先細りすると。その時は素直に聞いたんですけれども、絶対自分は小説と映像との違いがわかってると思ってたんで、反対されたことをやってやろうと思ったんです」(「週刊SPA!19991117日号)

 

 自作の小説を原作にシナリオを執筆するのが、野沢の目指すスタイルであった。それを難しいと敬愛する山田に言われたのはショックだったようで、何度となくインタビューで口にしている。「ゆっくりお話しする機会」というのは雑誌か何かで対談したのかなと両者のファンである筆者は検索してみたが、特に出てこなかった。私的な会食でもあったのかと思った。 

 さて、それでは山田太一野沢尚のことをどう思っていたのか。野沢の『烈火の月』(小学館文庫)の解説にて、初めて?山田は野沢との想い出について述べた。

 

「(野沢脚本の舞台)「恋人たちの短い夜」を私は見ている。渋谷のパルコの上の劇場のロビーで、上気した笑顔でプロデューサーと並んで、来た人たちに挨拶をしていた姿を憶えている。

 とはいえ実のところ、私はほとんど野沢さんと接点がない。作品をいくらも見ていないし読んでもいない」(『烈火の月』解説)

 

 「恋人たちの短い夜」というのは『ふたたびの恋』(2003)の誤りである(『恋人たちの短い夜』〈1993〉はそれ以前の作品)。山田は「テレビ局のプロデューサーに、野沢さんが一度しゃべりたいといってますよ、と何度かいわれ」ていたが「機会をつくらなかった」。

 

私から見れば息子世代の人である。華やかに忙しく仕事をしている人だし、年寄りに会いたがる訳ないじゃないか、と本気にしなかった。テレビ界の心にもないリップサービスに馴れていて、うっかり乗って席などもうけたら恥をかく、という気持だった」(『烈火の月』解説)

 

 先述の『反乱のボヤージュ』についても、山田はさほど買っていなかった。

 

テレビ朝日から「野沢さんが送ってくださいといってますので」とビデオテープが届いた。「あなたの『男たちの旅路』の現代版を書いたつもりだそうです」と。あ、それじゃあ、会いたいというのもいくらか嘘でもないのかな、と思った。力作だったが、異論もあり、いいところをほめて手紙を出した」(『烈火の月』解説)

 

 自分の原作を脚色するのは難しいと言った件についても、山田は解説で触れている。

 

そのあと、なにかのパーティで立話をした。小説の話になり「映像化を考えて書かない方がいい」というようなことを私はいったらしい」(『烈火の月』解説)

 

 野沢を動揺させたであろう山田の言葉が発せられたのは、対談でも会食でもなかった。パーティでのおそらく短い「立話」に過ぎなかった。「そのあと」と『反乱のボヤージュ』の後であるように書かれているのも山田の記憶違いで、野沢は『ボヤージュ』の数年前のインタビューにて山田に言われたことを何度か話している。

 山田の意識の中に、野沢はいなかった。

 野沢の死後、『烈火の月』を読んだ山田は「おくればせながら、抜群の才能であることを知」り、「もっと会っておけばよかった」と思ったという。近年の山田が30歳以上若い人間との対談に頻繁に応じているのは、亡き野沢の記憶があるゆえなのかもしれない。 

 

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