私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 インタビュー“ドラマを書いて思い知るのは、自分を根拠にできない他者がぎっしりいるということ”(1998)(2)

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 生身の人間がむき出しになるのが家族

 僕はこれまでドラマや小説で、いろいろな家族像を書いてきましたが、家族が全部うまくいっている時代なんて、おそらく今までなかったと思っています。家族に限らず、会社も社会も問題がないのが理想かもしれないけど、それはありえない。それに問題がないことが、果たして幸せかどうかもわからないですよ。子どもも、いつも良い子ではいられません。問題を起こすのが人間なんでね。夫婦だって、いつも愛し合って助け合ってなんて、ありえませんよね。相手を嫌だと思ったりするから、だんだんその関係が成熟していく。壊れる場合もあるだろうけれどもね。

 また、たとえばお母さんが子どもを良い大学に入れようと思っても、そこに本人はリアリティのある幸福感を描けないのかもしれない。すると子どもは、いろんな反撃をしてくる。そこでお母さんは、そんなに簡単にいかないということがわかる。それを反撃せずにいると、後で病気という形で出てくる場合もありますよね。だから、問題が起こることはむしろ、その家族が生き生きしているということだとも思えます。

 そういう生身の人間がむき出しになる場所が、家族以外になくなってしまったんですね。会社でも学校でも、みんな自分を出さないようにしていて、かろうじて家族だけがまるごとの自分を出せる場所になってしまった。その家族に対しても出せなくて、それぞれがたった一人になってきています。だから、むしろ自分のわがままが出せるというのは、いい家族だと思うなあ。

 もちろんお母さんは、毎日子どもが嫌なことを言ったり、言うことを聞かなかったりすれば腹が立ちますよね。それは怒っていいと思います。子どもは、お母さんとは理不尽に怒るものだと思うかもしれないけど、それで理不尽なものに対する認識ができるんです。全部ケアされて行き届いていたら、その子は人間を覚えることができません。だからお母さんは、自分の願いが切実で本音だったら、それが社会的にいかに奇妙でもかまわないと僕は思うんです。それ以外の生き方はできないんですから。

 

 マイナスの体験が心を育てる

 僕はいわゆるマイナスの体験というものが、子どもの心を育てると思っています。今の子ども達はプラスを享受しているように見えて、実はプラスを揃えすぎられるためのマイナスを被っているのではないでしょうか。たとえば、ちょっと欲しいなと思っても何でもすぐに手に入ってしまえば、切実な自分の思いを知ることもないし、物に対する愛着や細やかな感受性など育たない。また、理解されないと思って親に話すと、「そりゃあ、いいじゃないか。自分の思いを生かしなさい」なんて言われちゃう(笑)。「なんだ、みんな俺の責任かよ」っていうのも、マイナスといえばマイナスじゃないかな。

 

 親にできるのは、ほんの少しばかりのこと

 子育ても、親が子どもに良かれと思ってすることが、必ずしも本人のために良いことかどうかわからないというように、角度を変えてみる必要があります。子どもがある年齢になれば、親にはもう、そんなに責任ないですよ。だってすでにコントロールできない他者ですから、そんなに責任は負えませんよね。僕は『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』という本を書いたことがあるけど、本当にそう思うんです。

 生まれてきた子どもが白紙だなんてとんでもない話で、いろんな意味でぎっしりと宿命を背負って生まれてきていますよね。顔の形も、健康も、障害も、親の手に負えないことをいっぱい持って、子どもは生まれてきます。その限界の中での可能性を伸ばすために、何をしてあげられるかということでしょ。そして、これ以上はできないというところでは身を引く。限界を知るというか、ある時点で断念するということがとても大事なことだと、僕には思えますね。

 

以上、株式会社アイキューブのサイトより引用。