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山田太一 インタビュー “ドラマを書いて思い知るのは、自分を根拠にできない他者がぎっしりいるということ”(1998)(1)

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 最近、脚本家・山田太一氏関連の資料をいろいろ調べていて、1998年秋のインタビュー記事(株式会社アイキューブのサイトにあったのをかつてプリントアウトしていた)が出てきたので以下に引用したい。自身が身を置くテレビの世界や家族など他の媒体でも触れている内容が多いが、ある意味で山田氏のぶれなさが判るように思われる。「現金を包む」話は、この時期の舞台『黄金色の夕暮』(『読んでいない絵本』〈小学館文庫〉収録)にもあった。

 聞き手は安宅左知子氏が務めている(用字・用語は引用者ができる範囲で統一した)。 

 自分を根拠にできない他者の存在を知る

 脚本家というのは、どのくらい自分と違う他者を描けるかが、職業上の能力として問われます。登場人物がみんな自分の反映では困るんですね。しかも書き手にとって本当の他者、つまり人間てどうしてこんなことをするんだろう、こんなものなぜ好きなんだろうと思うような人を、客観的にではなく、その人自身になって描く能力が要求されます。そうでなければ、台詞は出てきませんからね。

 しかし、それは自分の頭の中で作った人物ですから、現実にぶつかる他者の凄さとは、やっぱり違うんですね。自分が同じ立場ならどう思うだろうというのが、他者の気持ちを想像する基礎でしょ。僕もそれに頼るだけです。たとえば贈り物をするとき、自分ならうれしいとか、相手の暮らしや状況ならこれがいいだろうと考えて贈りますね。それは、少し頭を働かせれば手には入る想像力ですよ。

 しかし、こちらが絶対に喜んでもらえると思って贈っても、それが見当違いな場合もある。たとえばお見舞いに行くとき、入院していればお金が一番だろうと考えて、現金を包むとしますね。しかし、それを侮辱だと感じる人もいる。だからわからないんですね、他人は。そして難しいのは、そういう自分を根拠にできない他者の気持ちを大切にすること。

 自分を根拠にできない他者の気持ちを、わかる方法は少ない。少ないけれども、自分がわからない他者がぎっしりいるんだということを、せめて承知しているかどうかだと思います。 

 

 正論に対して「そんなこと言えりゃ簡単」と言い返すのがドラマ

 テレビドラマ創成期のアメリカにパディ・チャエウスキーという人がいて、彼がこう言っています。「テレビドラマの素材として、なぜこの人は人を殺したのかということよりも、なぜこの人はこの相手と結婚したのかということの方が、ずっとスリリングで刺激的だ」と。

 それを若いときに読んで非常に興奮して、これこそ僕がこれから書いていこうとする足場だ、と思ったんです。なぜ僕の叔父さんは毎年毎年、忠実に同窓会に出て行くのかということにも、びっしりといろんなドラマがある。それに比べたら、殺人事件の犯人は誰か、なんてあまりおもしろくない。少なくとも、僕の書こうとするドラマでないと思ったんです。

 それからまたドラマは、プラスのカードをいっぱい揃えてもできません。立ち上がりは、この人には何がなくて、どういうところが欠けているのかというところからスタートするんです。僕がこういうインタビューなどで、「人間てこういうものじゃないですか」などと、言いますよね。それは議論上は正解だけど、人間てそうはいかないですよね。議論上の正解に「そんなこと言えりゃあ簡単だよ」「そうはいかないよ」と言い返すのがドラマだと思うんです。

 でも最近は、人の心や言葉の裏の思いといったものに想像力を働かすのが仕事であるはずの監督や演出家にさえ、単純で楽天的でお人好しの人が増えているなあと思います。役者さんが記者発表で「脚本がすばらしくて」なんて褒めるのを鵜呑みにして、この人達どうかしているなって思うことがあるんです(笑)。もっと辛口のドラマをたくさんやって、「人間て、そんなふうじゃないよ」と言わなきゃいけないのに、暗い話は嫌だと当たり障りのない話ばかりになってしまった。その罪は大きいと思うなあ。つづく

 

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