私の中の見えない炎

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大森一樹監督 トークショー レポート・『オレンジロード急行(エクスプレス)』『ヒポクラテスたち』(1)

 今年3月、東京国立近代美術館フィルムセンターにて大森一樹監督映画のレトロスペクティブが行われた。

 大森監督は高校・大学時代に自主映画を撮り、1978年に『オレンジロード急行(エクスプレス)』にて商業映画の監督としてデビュー。この時代までは、映画監督と言えば撮影所で修業してなった人が大半であり(テレビ出身者もいた)自主映画から商業映画へというルートのパイオニアが大森監督であった。

 今回の特集上映では大森監督はトークショーや舞台挨拶を20回も行ったという。筆者は2回行くことができたので、若き日の自主映画と『オレンジロード急行』の上映後のトークをまずレポートしたい(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや、整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

大森「(今回の上映作品で)いちばん古いのは30年くらい前、いちばん新しくても10年前。それだけ寝かすと、自分でもこんなだったかと思いますね。

 1970年代は映画館の映画と、普通の映画館でやらない自主映画の2種類しかなかった。それはそれで判りやすくてよかった(笑)」

 

 大森監督の自主映画『暗くなるまで待てない!』(1975)は評判になり、その年のキネマ旬報の21位にランクイン。大森監督は自主映画界の新星として知られるようになる。

 

大森「自主映画は(制作費の)回収が大変でした。『暗くなるまで待てない!』は3年目でやっと回収できたんですね」

 

 そして『オレンジロード急行』の脚本・監督で商業映画を初めて手がける。自主映画の経験があるとはいえ、当時25歳でメジャーな映画を監督するというのは事件であった。

 『オレンジロード急行』は小型トレーラーで海賊放送をしている青年たちと自転車泥棒の老人との交流を描いている。

 

大森「商業映画の作り方を教えてくれたのは撮影所です。映画館の映画は撮影所で撮りますから。自主映画をつくり始めて、撮影所に行ってから(商業映画の)つくり方を教えてもらうという形です。

 相米慎二さん、根岸吉太郎さんは撮影所から来た。森田芳光さんや井筒和幸さんも自主映画から来て撮影所に行った。ぼくらは撮影所に教えてもらった最後です。

 (『オレンジロード急行』を)撮った直後はスタッフの意図がよく判らなかったんですが、20年以上経つと、ああ撮影所の仕事だって判りますね。当時はお金がないお金がないと言ってたんですけど、いま見るとお金がかかっていて豊穣に見える。それは撮影所の技術ですね。

 いまの撮影所は貸しスタジオで、そこで映画を教えるということがなくなってきたのがこの20年くらい。去年(『舟を編む』〈2013〉により)キネマ旬報監督賞を受賞した石井裕也は大学でぼくが教えたんですけど、大学で撮影所の代わりができるかっていうと難しいですね」(つづく)