私の中の見えない炎

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佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(1)

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 テレビ『帰ってきたウルトラマン』(1971)や『ペットントン』(1983)、『どきんちょ!ネムリン』(1984)、『おもいっきり探偵団覇悪怒組』(1987)、『美少女仮面ポワトリン』(1990)など幾多の特撮ドラマを撮った名匠・佐伯孚治監督(2018年逝去)。デビュー作の映画『どろ犬』(1964)が2019年にリバイバル上映されて、静かな注目を集めた。

 その佐伯監督が自らの来歴について語った貴重なインタビュー(「われらのインター」Vol.29)を以下に引用したい。聞き手は四茂野修氏が務めている(用字・用語は可能な範囲で統一し、明らかな誤字は訂正した)。

 戸塚(引用者註:戸塚秀夫)君の『試論 動力車労働組合運動の軌跡について』は面白かった。感銘を受けました。

 組合関係の文書というと、とかくスローガンを羅列した無味乾燥なもの、手前勝手な自画自賛だったりするので、大して期待せずに読み始めました。動労についても、革マルに引きずられた極左集団が、いつの間にか当局となれ合って国鉄解体に一役買ったという認識でしたが、読んでいくうちに面白くなって、とうとう読みとおしてしまいました。当時の猛烈な組合攻撃の中で、自分たちの生活を守る柔軟な闘いをやった、生き生きした集団だったということがよくわかりました。

 松崎明って人はすごいですね。この人を抜きにあの運動はなかったでしょう。貨物列車の音の変化から、空の列車を運転する現場労働者の哀しさや状況の深刻さを感じとって「貨物安定輸送宣言」へとつなげたんですから。JRという民間企業になっても、たたき上げとキャリアの間で名刺のスタイルにまで差別のある官僚体質を突いた話も痛快でした。

 労働組合が既得権を守るために反対を叫んでいればすむ時代は終わったと思います。組合は発想を大転換して、一時的な後退を恐れず、生産現場から労働者プランをどんどん提案していくようにならなければならないと思います。労働者がただ使われるだけの状態に安住するのではなく、自主管理の能力を身につけることがとても大事じゃないでしょうか。これは僕自身の組合体験にもとづく考えです。

 

〇僕の組合体験 組合つぶしをはね返した自主管理

 60年代から80年代にかけて、僕のいた東映でも、あの手この手の組合つぶしが行われました。委員長の首切りから始まって、第二組合づくり、組合分裂というお決まりのコースでした。

 

 組合分裂

 監督になって初めて『どろ犬』という映画を撮ったばかりのとき、世田谷にある大川(引用者註:大川博社長宅に組合がデモをかけたのに僕も参加したんです。東京撮影所の支部委員長の首切りに反対する行動でしたから、僕のいた演出分会も大部分が行きました。

 ところが運悪くスポーツ紙の記者が撮った写真に僕が写ってたらしい。それを誰かが社長に持って行った。当時は監督に登用されると社長室にあいさつに行くことになっていたので、僕の顔を見つけた社長が、「監督のくせに家にデモで押し掛けるとは何事だ。今後絶対に映画を撮らせるな」と激怒したとか。それ以来僕は自分の会社で監督ができなくなりました。いわゆる干されたんです。

 委員長の解雇理由は「業務妨害」。舟木一夫が主演する『夢のハワイで盆踊り』っていう映画をハワイで撮ることになって、それまで40人以上のスタッフでやっていた仕事を16人でやれと言われたんです。当時としてはあんまりひどい話だったんで組合が交渉したんですが、そのあいだ、スタッフの渡航手続き用の戸籍謄本を委員長が預かったんですね。これが「業務妨害だ」ということでクビになったわけです。

 これには伏線がありました。撮影現場には臨時者と呼ばれる人がたくさんいて、8割くらいは臨時者でした。彼らには健康保険も失業保険もなくて、賃金は日給が250円。しかもそのカネは人件費ではなく資材費で伝票を切っていたんですね。テレビの普及で映画がだんだん斜陽化しはじめると、真っ先にクビを切られるのは俺たちだという危機感もあって、組合加入を求める声が強くなります。そして1961年に全員の組合加入が実現しました。これで東映労組は1300人から一挙に2400人にふくれあがりました。さあ人員整理をしようというとき、臨時者が組合員化されたのですから、会社はかなりの危機感を持ったようです。

 京都撮影所支部で以前委員長をやった男が、当時、本社の労務係長だったのですが、東京撮影所の労務係長に送り込まれてきました。それとチッソ水俣工場で組合分裂を指導した戸松武男という労務屋を会社が雇いました。そして「水曜会」という係長クラスを中心にした組織をつくって、熱海の旅館などで反組合教育を盛んにやりました。こういった流れの中で、東京撮影所支部の委員長が「業務妨害」を理由に解雇されたんですから、会社の狙いははっきりしています。

 6月に解雇があって8月に支部大会が開かれると、「水曜会」の連中が解雇された委員長の再選に文句をつけてきました。そのあげく彼らは大会を退場します。そして間もなく「東映東京撮影所労働組合」を結成しました。本社と営業支社では、支部丸ごと東映労組から脱退し、新労連をつくりました。残る京都撮影所では、しばらく何も起きませんでしたが、1年半後に強制配転反対闘争を批判して分裂が起きました。

 以上「われらのインター」Vol.29より引用。(つづく)