評論家の唐沢俊一には、偶然なのかあまり影響を受けていない。当方の無知ゆえに唐沢の訃報に接しても感慨が湧くこともさほどないのだが、SNSによって死が発覚したと知ると何だか複雑な心境にはなる。
筆者が思い出すのは、市川崑監督が「鶴の恩返し」を映画化した『つる -鶴-』(1988)に関する唐沢の発言に触れたことであった。
「市川崑の『鶴』という映画があるんです。よひょうが覗くと鶴が機を織っているシーンを、やっぱり東宝ですから、東宝特美がつくるわけですよ。紐操作で鶴の口がパコンパコンと開いたり、羽根をこうやったり、首を振ったり、よくできているんですよ。でも、見るとやはり違和感バリバリなんです。「こりゃないだろう」と思うのね(笑)」(『円谷英二 KAWADE夢ムック』〈河出書房新社〉)
鶴が機織りするのを見てしまうシーンは人形が使われていて、そこまでリアルに進行していた映像世界に人形が急に現れると奇異に感じられる。つまり論旨は特撮物でない一般的な映画に特撮シーンが入ってくると違和感を覚えてしまうというもので、首肯できないわけではない。しかしまず題名は『つる -鶴-』であり、男性主人公の名は大寿である。「よひょう」とは木下順二の戯曲「夕鶴」に登場する名で(『夕鶴・彦市ばなし 他二篇』〈岩波文庫〉)市川崑は木下に「夕鶴」の映画化を断られ、そこで「夕鶴」を避ける形で「鶴の恩返し」を扱うという難しい措置を迫られた(『完本 市川崑の映画たち』〈洋泉社〉)。趣旨に影響がないとはいえ、容易に調べられる情報を確認しないで言及するのには杜撰さを感じてしまう。
2001年の発言だけれども、その後に唐沢はテレビのヒット番組『トリビアの泉』(2002)のスーパーバイザーとしてクレジットされ、サブカルチャー界で一頭地を抜いた感がある。だがやがて盗用や問題行動がネット上で非難され、彼のペテン師としての正体が明らかになっていく。事実確認は抜きでもっともらしいことを喋ってみせる胆力は大したものだが、その姿勢は20世紀ならともかくネット時代には不向きであった。
晩年の唐沢は「ツイ廃」の状態で日々SNSに耽溺していたという。1日何回も映画やマンガ、左派批判などについてつぶやいた他に、身辺雑記も残っている。筆者が久々に思い出したのは、かつて古本で入手した月刊誌に載っていた宇多田ヒカルの人物評である。17歳の宇多田は新進気鋭のヒットメーカーだった。
「うっとおしい(原文ママ)人間関係なんかゴメン、情報なんて街にあふれてる、でも、それでもどこかに人とつながっていたい。そんな気持ちが携帯電話やインターネットで顔も知らないメル友を求めてしまう…。
デビュー直後から、宇多田ヒカルは学校や家であった出来事など自らの情報をホームページで発信している。(…)そこには彼女の声が聞こえる。「私はここにいるよ!」と」(「日経エンタテインメント」2000年12月号)
個人主義でありながらつながりも求める時代の幕が開き、その象徴が宇多田ヒカルだというわけである。著名人がデジタルなツールで日々の生活を「発信」するのは、ネット黎明期の当時としては斬新だった。「宇多田ヒカルは、現在ニューヨークの大学に進学中。21世紀を10代のままで迎えようとしている。ホームページでは相変わらず、猫を飼い始めたよ、なんて近況報告をしている彼女」(「日経エンタテインメント」)ともあるけれども、世紀の変わり目に青春真っ只中の若者が自己主張やファンサービスの一環として行っていた「発信」を、いまは唐沢俊一という死期の迫った問題人物(前期高齢者)がしているのだった。唐沢自身もSNSは「生存確認」でもあると明言し、体調の悪さを幾度もぼやいている。宇多田のように、そこには唐沢の「声が聞こえる」。おかげで彼は、死後すぐに発見された。もっともいまはSNSで世界に呼びかける人は、老いも若きも地球上にいくらでもいるだろう。時代は確実に変容した。
口が立ち、押しも強いが粗雑でモラルに欠ける男が雑誌メディアで頭角を現して、ほどなく失脚。病いに苦しみながら「私はここにいるよ!」とSNSで不特定多数の人びとに「発信」して死んでいった。