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塚本晋也 トークショー レポート・『野火』(1)

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 1951年に発表された大岡昇平『野火』(新潮文庫)は、フィリピンにおける戦場の悪夢を描いた戦争文学の代表作。市川崑監督によって1959年に映画化されているが、それから56年を経て2015年に塚本晋也監督がリメイク映画化。市川版に比べてスプラッター的な描写が増え、よりショッキングな内容になった。主演も塚本氏が務めている。

 塚本作品というと『鉄男』(1989)や『東京フィスト』(1995)、『六月の蛇』(2003)など人工的にデザインされた独特の意匠が多い印象を抱いていたけれども、今回は大自然の中で壮絶なドラマが展開し、新境地とも言える作品になった。

 8月に池袋の新・文芸坐にて “反戦反核映画祭” が行われ、その最終日に『野火』の上映と塚本監督のトークショーがあった。聞き手は映画評論家の森直人氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

【『野火』の構想】

 塚本監督は『野火』の映画化を数十年前から志していた。かつては8mmで山上たつひこ『光る風』を「無断で」映画化したこともあり、戦争は常に頭にあったようだ。

 

塚本「(自分の生まれた)1960年というと、戦争が終わってからたった10年。高度成長期で、戦争の面影がなくて。いまも若い人が戦争をSFみたいに感じるように、若い人と歳が離れてるぼくにも現実がない。戦争を遠くへ追いやろうとしていたのかな、良くも悪しくも。明るい未来のために陰惨な記憶は消そうと。いまは無造作に戦争のほうに行くので、封印しちゃいけないというふうになってきたのかな。

 ぼく自身は戦争のリアリティを感じなかった。祖父母も何も話してくれなくて、ピンとは来なくて、それだけに怖かった。10年前につくろうとしたときは(戦場に)行った方が80を過ぎてて、当時も焦っていて、いっぱい話を聞いて。そのときちょっと実感が湧いてきた感じなんですけど。

 自分の自主映画は頭の中のへんてこなものをスクリーンに乗せていく。でも『野火』に関してはそうじゃなく、高校生で原作を読んだ衝撃があって、この世界に自分が入って追体験して、お客さんにも追体験してもらう。

 戦争を昔から描こうと思うことはあったけど、被害者の目線の素晴らしい映画はたくさんあるんで、自分が加害者になってしまうのがいい。ただ南京大虐殺などやってしまうと行き過ぎ。加害者の目線もいろんな要素が『野火』には入っていて、自分の言いたいことも入ってるし、『野火』に近づきたい。

 『野火』は原作を読んでも、小説ですがご自身の体験のディテールがあって。10年前にインタビューで聞いて結構ピンときて」

【制作準備 (1)】

塚本「身内の方の体験を話してくださって、それで実感が湧いてきて。後半のこと(展開)とかがざらというか、これが日常という感じであって」

 

 戦争体験者にインタビュー取材を重ねた塚本監督は、当初は著名な俳優を主演に据えた海外ロケの大作映画を希望していたが、スポンサーさがしは難航。

 

塚本「最初は『地獄の黙示録』(1979)みたいにしたいと。原作もちゃんとしてるし、多くの人に見ていただいて、スタッフやキャストも(フィリピンへ)連れてってと。それを考えてたことを思えば、何でこんなこと(小規模な映画)に。でも理想を掲げていても形にならない。なるべくしてこうなったなと」

 

 アニメ化の可能性も探った後に、結局は自主制作の実写映画という形に落ち着く。

 

塚本「俳優、監督という分け隔てなく、持てる力を使って『野火』に近づく。自分が出るのは最後の手段で、アニメでもいいやと。でもアニメには時間がかかる。10年かかったら、時代が変わってしまう。

 ほんとに自主映画だったのは『鉄男』(1989)だけ。でも今回は成立の過程が難しくて、結局こうなったっていう。岡本喜八監督も『日本のいちばん長い日』(1967)の後の『肉弾』(1968)では、自主映画の強さを感じましたね。市川監督の『股旅』(1973)とかね。

 戦後70年というのは、95歳まで長生きされた(証言者の)方も亡くなって、水木しげるさんや野坂昭如さんも亡くなられて。戦争は絶対厭だと言える方がいらっしゃらなくなって。ふわっとして(反戦)映画がつくれない空気になってきて、何とか一石を投じたい。これ以上後になると、つくるチャンスがなくなる」(つづく)

 

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