【ドキュメンタリーとローラ(2)】
『もう一つの教育 伊那小学校春組の記録』(1991)の後半には、ローラをもとの飼い主の方に戻すか戻さないかについての討議がある。
是枝「修羅場だと思ったね。撮って大丈夫かな。百瀬(百瀬司郎)先生がほんとに怒ってるというか、ローラに対して誰にも負けないぐらい本気。それが伝わるでしょ。真正面から受け止める子どもたちも大変だよね。反撥する子もいたけど。ぼくは自分の小学校時代に先生と真剣勝負なんてなかったもんな。あの教室の喜怒哀楽のボルテージが自分の小学校と違う濃度で」
百瀬「私は本気で怒ってました(笑)。是枝さんが近づいて撮っていたということも判らなかったですね。是枝さんが3年ぐらい私のクラスに入っていたんですけど、是枝さんは息をしない(笑)。雰囲気を感じないというか、どこにいるか判らない取り方をしていて、私はカメラがあるということを感じずにいたように思います。貸してくれた方との約束だから3月にローラを返しましょう、はい終わりってなってしまったのでカチンと来ちゃったもんですからキレてしまって。しょっちゅうああいうふうにはなっていたんですけど、私の言いなりにはほとんどならない子どもたちですので。話し合っていくうちにこれでおれたちはローラと別れることができるなってところにだんだん落ち着いていったというか、納得していったというかな。最後にひとりの子が、ローラのことが大好きだから返してあげたいんだって言いますけど、みんなの中にすとんと落ちていった言葉かなと思ってるんですが」
是枝「インタビューは百瀬先生に1回して、子どもたちには詩の朗読してもらっただけ。インタビューは他にしてない。何でだろうな。学校の中に見えるものだけでいいと思ってたんだな…。愉しい?って訊いて愉しいって答えるのを撮るより、愉しいって伝わるように撮る。インタビューして言葉を拾えば撮れた気になっちゃうけど、ディレクターの陥りやすい罠でそれを回避したんじゃないかな」
【『しかし…』の放送】
伊那小学校の取材がつづいている段階で平行して是枝監督は『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(1991)を制作し、先に放送された(『雲は答えなかった 高級官僚 その生と死』〈PHP文庫〉として書籍化)。
是枝「『しかし…』は(ナレーションを入れたことで)喋りすぎたなと思った。放送したら評判がよくて、フジテレビの編成の金光(金光修)さんにすぐ次をやってくれと言われて「実は撮り溜めているものがあるんです」って話してその場で放送日が決まっちゃった。勝手にテレビマンユニオンの編集室を使って(既に)編集してたんだよね。『しかし…』の反省から『もう一つの教育』ではナレーションをやめてみようと思った。クラスでぼくが聞いていた音になるべく近づけようと。金光さんはいいって言ったんだけどフジテレビのいろんな偉い人が出てきて、なかなかオッケーにならなかった。試写をしたときにスケッチブックにテロップを書いて、画面に合わせてぼくが横でめくりながらプレゼンしたんだよね。こういうふうにしますって説得して、なしでいいよって。当時(ナレーションなしは)珍しかったよ。
テレビマンユニオンの中でぼくの天敵だった先輩の白井(白井博)さん(笑)。ぼくは3回ぐらい長期で休んでるんだけど、3回目は白井さんと揉めて休んだ。白井さんと揉めたらテレビマンユニオンでは生きていけないっていう情況だったんだけど、『しかし…』を放送した翌日に「白井さんが呼んでるよ」って。やばいと思って部屋に入ったら「見たぞ。面白かったな」。それまでのハラスメントを許しちゃいました(一同笑)。そういうところがずるいんだよね。あっ、この仕事をつづけていけるかもしれないと思った」
【その他の発言】
是枝「撮影が終わった後に、百瀬先生とどっかでお鍋をいっしょに食べていて「是枝さんがこのクラスに通ってくるのは励みになるしありがたいけど、是枝さんが向き合うべき子どもたちは東京にいるんじゃないか。ここに逃げ込んでちゃダメだよ」ってお酒が入ったからかもしれないけどストレートに言われて、痛いところを突かれたな。ここに癒されに来てた。百瀬先生は「そんなこと言ったかな」って後で言うんだけど(笑)。放送が終わった後にそれが残って、映画『誰も知らない』(2004)をつくるモチベーションになった。そこから地つづきでいろんなことが始まってったね」
是枝「当時、百瀬先生は「学ぶ力を育む」って言い方をされていて。ぼくはいいなと思ってます。周りに若い人はいますけど、教える気はないですね、勝手に育つ状況はつくる。あとは自分が愉しそうにする。愉しそうだと思われたい。伊那小のパクリです(笑)。
(若い人には)いま悩んでることは大したことじゃないよって。もっと大きな悩みにそのうち直面するから、些細な悩みで右往左往しなくていいよ。いま目の前に20代の自分がいたらそう言いますね。そのときは深刻に受け止めてたけど、後から考えるとあんなハラスメントなんて、サバイバーの自分が大したものじゃないって言うのはよくないんだけど、ハラスメントする彼らの言ってることやしてることなんて本質的なものじゃなかった。自分で企画して番組をつくることの中で、向き合うべき課題とか乗り越えなければいけないものとかが山のようにあって、そっちのほうに悩むべきだと。もういいか、あの人たちのことは。
仕事として通い始めたわけじゃないだけに、放送順だと2作目だけどこれがデビュー作。放送決まってないのに学校にカメラ持って入って来て、不審者ですね(一同笑)。そこから32年。きょうも百瀬先生が来てくれて、当時の子どもたちも何人か駆けつけてくれて。取材してるといろんなことに出会ったけど、こういう形で人間関係がつながって学ばせてもらった…。感謝してます。ぼくは何とか辞めずにつづけてこられた。春組のグループLINEもあって、コロナでみんなで集まれなかったりしたけど、こんな形で再会できました」