私の中の見えない炎

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是枝裕和 × 大島新 × 鈴木あづさ トークショー レポート・『反骨のドキュメンタリスト 大島渚「忘れられた皇軍」という衝撃』(2)

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【是枝監督と『忘れられた皇軍』(2)】

大島「「NONFIX」はたくさんやっていらっしゃいますもんね」

是枝「「NONFIX」に育ててもらったって感じ。その「在日コリアンを考える」で取材の交渉に行ったときに「お前は大島渚の『忘れられた皇軍』(1963)を見たことがあるのか」と言われてすみません、見てませんと言ったら「あれ1本があればいい」と。それで手を尽くしてどっかで見た。だから(見たのは)この仕事を始めてからですね。

 特に衝撃を受けたのが最後のナレーション。「今この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない。日本人たちよ。これでいいのだろうか」と。なかなか書けない。大島さんの憤り。怒りよりも底のほうから来てる。抑えようのない憤りが貫かれているからさ。大学のテレビ論という授業で見せると、みんな言葉を失う。「ほんとに放送したんですか」って言われる。お茶の間に流すのは、当時だってショッキングだったと思います。

 大島さんもすごいんだけど、プロデューサーの牛山(牛山純一)さんに腹をくくってこの番組を放送する覚悟があったと思うんですけど」

鈴木「放送から8年も経って、何故この作品を選んでいただいたんですか」

是枝「(高円寺ドキュメンタリーフェスティバルで)毎回、何を上映するか山崎(山崎裕)さんと相談してどうしようって。上映の条件が厳しくて、局によっては貸し出してくれないところも。自作ははずかしい。それで今年のテーマは “忘却”だから、これしかない(一同笑)。でも繰り返し見たほうがいいよね」

 

【『忘れられた皇軍』を語る】

大島「放送があったときに大島渚は31歳で、牛山さんは2~3歳上で33~34歳。いまの私より20も下ですから、そんな若い人がつくっていたのかと今回改めて驚きました」

鈴木「反骨心を持っている若手がどれだけいるか。制作者としてはテレビの罪を意識せざるを得ない」

是枝「つくったときのことを新さんに話されたりしたんですか」

大島「ほとんどないですね。息子に仕事のことをあまり話す人ではなかったので周囲の方、若き崔洋一さんとかからは聞いていたんですが。著作とかでこんなことを考えていたのかと知る(笑)。戦後18年も経ってこういう境遇の人がいて、自分は知らなかったというはずかしさ、自分も含めた日本人への憤りというのがあったとものの本で読みました」

是枝「日本人たちの中に自分も含まれているというのが、この作品の強さだよね」

大島「もちろん牛山さんというプロデューサーがいて、既に著名な監督であったからできたということもありますね。ああいうナレーションはなかなか許されない。でもやればいいじゃんと」

鈴木「是枝監督にインタビューしたときに、これからのニュースはネットと戦っていくよね、お前がどう感じたかという署名性を出さないとネットに飲み込まれるからねって言われたのをすごく覚えています」

是枝「お前とは言ってない(一同笑)。そんな偉そうには」

鈴木「いまはポリティカル・コレクトネスが厳しくて、許される幅が狭まっています」

大島「いま『忘れられた皇軍』が放送されたら、ものすごく炎上するんじゃないかなって思いました」

是枝「ぼくはこの作品見た後、1997年に原一男さんのされていたシネマ塾でドキュメンタリーを取り上げて今村(今村昌平)さんや田原(田原総一朗)さんを呼んで話して。この作品の裏側を聞いたんだけど、後半で白装束のまま2階で飲み会が始まって涙を流す。いまの言葉で言えば仕込みのようなものだったと。撮影が終わって試写をしたら、牛山プロデューサーがこれでは足りない、もう1回行って撮ってこいと。それで場を設定して、お酒のお金は大島さんが払ってるのかな」

大島「局側じゃないですか。いっしょに飲んでるはずです(一同笑)」

是枝「それが不謹慎だって言う人もきっと出てくる。でもそうしなければあの瞬間は撮れてない。どう考えるかはつくり手がそれぞれの倫理で決めればいいけど、いまだったら単純にはできない。

 ただ大島さんは、このことをきっかけに牛山さんを信頼した。映画だけやってればよかったのに、テレビもやってみようということで、片手間で済ませてもよかった。そういう映画監督はたくさんいるのに、彼は本気でやるべきだと思ったはずです。その後は、テレビ制作の仕事はずっと牛山さんと組む。よっぽどだよね。理想的な関係」

大島大島渚の全フィルモグラフィーの中でも上位にくるような反響で、本人の中でも大事なものだったと思いますね。

 この番組はフィルムで撮っています。当時はいまのようにフィルムをたくさん回せない。25分番組でその3~4倍くらいしか回せない。だからやらせや設定のような場面もある。いまは機材がよくなってまして、100倍でも200倍でもカメラを回せて編集が大変。国会議事堂前のカットは…」

是枝「転んでもらってるよね(一同笑)」

大島「にやっとしてますね(笑)」

是枝「あそこは40秒、カメラを回しっぱなし」

大島「ナレーションの筆が乗ってますね」

是枝「大島さんは、おれはナレーションが上手いって自慢してたよね(笑)」

大島「最後の「日本人たちよ。これでいいのだろうか」ってのは有名ですけど、その前の「もっと大きな喜びが与えられるべきではないのか」。このへん、乗ってるな(一同笑)」

鈴木「「見えない目から涙が流れる」っていうあのクローズアップの多用。身障者の部分に焦点を当てて際立たせるのは、いまだったら誹りを受けるんじゃないかって思います。すごくセンシティブですね。ただ大島さんが許されたのは、裁判のときに黒いネクタイで法廷に行かれますよね。忘れないで追っていく責任の取り方が、どれだけクローズアップしても許される理由かなと。匕首を突きつけられるような気がしました」

 大島渚は『皇軍』の放送から数十年経っても、傷痍軍人が国を訴えた法廷に行っていて、その映像も流れた。

 

鈴木「大島さんの奥さまの小山明子さんにお伺いしたときに、出ていらっしゃった方の名簿がありまして拝見しました。訴えは認められず、軍人恩給は支給されないままだったと。そのことについて主人は悔しがっていて、法律を変えれば済むことなのにとすごく憤っておられたということです。

 大島さんはずっと忘れずに、法廷に足を運んで追跡していらっしゃる。(この時点で)皇軍の方々はほとんど亡くなられていて追跡は難しかったんですけど、取材した方のことを忘れないという精神は私の中で生きつづけました。事件や事故を取材していて例えば被疑者の家族や死刑になった方の息子さんはどうなっただろうと思うんですけど、なかなか取材はできなくて、扉の内側にカメラを入れることはできない。フィクションでしかできないと思って。仕込みと言われることでも大島監督が踏み込んで普遍性を表現したんですが、私はいま小説を書いています」

是枝「『誰も知らない』(2004)の脚本を書いたときは、もとの事件とは変えてますけど、カメラがもし子どもたちのアパートの中に入ったら何が見えるだろうと。外側からは地獄だったとか鬼母だったとかいう報道で埋め尽くされていたけど、反対側からの見え方は違うんじゃないかという考え方でつくっていました」(つづく