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白井佳夫 トークショー “阪東妻三郎 田村高廣 永遠の親子鷹” レポート(1)

 『無法松の一生』(1943)などの時代劇スター・阪東妻三郎と子息の田村高廣。この両者の特集上映 “阪東妻三郎 田村高廣 永遠の親子鷹” が阿佐ヶ谷であり、7月に映画評論家・白井佳夫氏のトークも行われた。

 白井氏は映画誌「キネマ旬報」の編集長を8年半務め、『黒白映像 日本映画礼讃』(文藝春秋)などの著書がある。聞き手は『ピンク映画水滸伝 その誕生と興亡』(人間社文庫)などの鈴木義昭氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

白井「この阿佐ヶ谷にもう50年以上住んでます。今年の4月29日、前の天皇誕生日に90歳になってしまった(拍手)。頭のほうはしっかりしてるつもりなんですけど、体は言うことを聞かない。ときどき当然知ってなきゃいけない人や物の名前を忘れる。そういうときはすぐ声をかけてくれるように、弟子をひとり、ひそかに配置しております」

 

【映画初期と阪東妻三郎 (1)】

白井阪東妻三郎さんは『無法松の一生』をはじめ年寄り役をやってましたから、80ぐらいまで生きたんじゃないかという一般イメージがありますけど、まだ51歳で亡くなって早かったですね。田村高廣さんは若い役が多かったものだから、60前かという気がしてたんだけど意外と歳をとってて。

 日本映画の歴史は京都から始まってるわけですよ。京都に日本映画最初のプロデューサー・監督の牧野省三がいて、歌舞伎の劇場を運営してたんですね。明治の末に日本に映画が入ってきて映画でドラマが撮れないかとなったときに、牧野省三は劇場でやってるような歌舞伎を京都の古いお寺や神社や森や池で撮ったらどうだってことで映画が始まった。最初の役者には、当時全国を回ってた目玉のまっちゃんというあだ名の俳優さんを使って、忍術映画で彼が煙とともにぱっと消えてそこにサルがすわってたとか。そういううちに見世物的な映画を芸術にしていこうって考え方が出てくるわけですね。映画を映画らしい新しい芸術にするにはどうすればいいのか。時代劇も歌舞伎の引き写しでえらい役者が「うーん」って言うとかかってくる役人がばたっと倒れるみたいなことはやめて、もっとアメリカ映画みたいにリアルにアクションを撮ろうと。その新しい時代劇で光を放った役者さんが阪東妻三郎さんでしょうか。

 『雄呂血』(1925)をいま見ますと、歌舞伎の再現みたいなんですよ。何重に縄をかけられても解いて出ちゃうとか大八車ががらがら来るとか、歌舞伎のアクションなんですが歌舞伎的様式ではなくてアメリカ映画みたいなんですね。特に阪妻さんが斜め横を見ながら斬るというのはリアルで。芝居でも新国劇が出てきてリアルな殺陣をやるようになる。それに呼応しているのが『雄呂血』かなと。

 当時の監督たちはアメリカ映画のいいところを取り入れたわけですよ。伊藤大輔の『大江戸五人男』(1951)がぼくは大好きなんですが、その伊藤大輔もやっています。チャップリンの短編で奥さんが死んでお葬式をやって夜にチャップリンはかたかた震えて、観客は奥さんが死んで悲しんでるのかと思ったらチャップリンはカクテルをつくるためにシェーカーを振ってたとか(笑)。それを時代劇に取り入れると、阪妻さんの侍が主君に罵られて、同輩の侍が「卑怯者」「バカ」と言う。侍の肩が震えて、泣いてるのかと思ったら笑ってて、憎い主君も同輩も斬り倒す。自分も片腕を失って世の中に復讐する無気味な武士になる。「丹下左膳」の始まりですね。

 阪妻さんの中では伊藤大輔の『大江戸五人男』は戦後の日本映画しか知らないぼくが、戦前のサイレント映画はこういう調子なのか、見事なものだと思いました。伊藤大輔は時代劇のヌーヴェルヴァーグだったんですよ。当時の京都の映画人は伊藤大輔を「移動大好き」って言ったんですが(笑)よく移動撮影をしてた。侍がセットに走りこんでくるのを手持ちカメラで追って、セットに入るとキャメラマンが交代して最初の人がキャメラを投げて次の人がそれを受け止めてつづきを撮ったと。そんなエネルギーがあった時代ですね」

白井「『無法松の一生』は日本の敗戦に近いころの映画で、検閲にズタズタに切られた。15分ぐらいやられてます。つぶさに調べると大日本帝国陸軍少尉の未亡人に、無学文盲で定職を持たない人間が横恋慕することがあってはならないと。そのころは戦争末期で日本中の若い男が出征してて未亡人が増えてた。その未亡人のひとりに無学な男が恋するなんてルールに反すると、ちょっとでも匂わせるシーンは取っちゃう。同じフィルムが戦後にまたカットされて、アメリカ占領軍の検閲がやったんですね。戦勝国を侮辱するシーンがあると。日清戦争で日本が勝ったって芝居をやってるシーンで、そこで無法松がお酒飲んで暴れるんだけど、戦争に勝った中国に失礼だと。バカみたいな話ですよ。豆まきの晩に無法松が未亡人に、少年があした学芸会で「青葉の笛」を歌うから練習をさせたいと言う。軍国主義時代の文部省の唱歌だから、民主化された日本人が歌ってはいけないと。ただよく聴いてみると「一の谷の軍破れ」って平家と源氏の武士が殺し合いをしないといけない悲しみを歌ってるんですよ。ひそかに仕込んだ反戦の歌なんですが、アメリカ軍は軍国歌謡だって禁止した。だから検閲なんてやると、軍国主義政府も民主化しようとした占領軍も同じようなことをやってるわけですね」(つづく

 

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