私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

池端俊策 講演会 “脚本家の仕事” レポート・『麒麟がくる』(4)

【日本の立ち位置 (2)】

 ドラマをつくるときは自分の生きている時代を意識したり吸収したりしながらつくる。人間は時代と切り離せないもので、社会と全く隔離されて生きるなんていうのはリアリティを持たない。その時代の中で犯罪や恋愛や家庭崩壊があったり。大河ドラマであってもいまと切り離しちゃうと、見る人に違和感がある。どっかで自分と似た呼吸をする人が活躍するから、感情移入できるんですね。

 

緒形拳の想い出】

 思ったのは、光秀(明智光秀)は人物としては二流だと。信長は一流だけど、そのそばにいて様子を伺っていた光秀は、自分の中では二流。亡くなっちゃったけど大変親しかった俳優に緒形拳がいて、30年ぐらい公私ともに話して「次は何をしようか」「どうしようか」。彼は71歳で亡くなって、まだ若いですね。ぼくは緒形さんに何度も「緒形さんは二流だよね」って。一流はお師匠の辰巳柳太郎。辰巳さんにあこがれて、緒形さんは新国劇っていう劇団に入った。ぼくは舞台も見ましたけど、代表的な出し物の「国定忠治」では辰巳柳太郎が白い衣裳で斬って、刀を紙でふいてその紙がぱっと舞台に落ちていってかっこいいんだね。緒形さんがそれをやると全然かっこよくない(一同笑)。何故か、舞台では映えない人だった。辰巳さんは舞台映えする顔だけど、緒形さんは顔がちっちゃくて背が高くてどっしりした感じがなかった。緒形さんは辰巳さんに太刀打ちできなくて新国劇を出て、大河ドラマ太閤記』(1965)で抜擢されてスターになった。辰巳さんは緒形さんに「お前のような役者でも通用する時代になったんだな」って言ったそうですよ(笑)。それぐらい普通で、美男子というわけでもない緒形さんが。緒形さんがぼくによく手を見せて「見ろよ、この手。役者の手じゃねえだろう」。ごつごつして岩みたいで、辰巳さんは綺麗な手だった。緒形さんの中に自分は辰巳になれないというのがずっとあった。だからぼくは「緒形さんは一流を知ってる二流だから、すごいよね」って。みんな一流を知らないまま終わってしまう。ぼくは緒形さんに、意識的にそういう役、二流の役をやってもらいました。ヒーローをやりなさんなっていう話をして、緒形さんも「そうだよな」。緒形さんが映像面で尊敬してたのは笠智衆さん。彼の書斎に行くと笠智衆の本が。「池端、おれは何もやらんからな」って。笠智衆さんは演技をしないで、小津安二郎という大監督にああしてこうしてと言われて、悲しいときは「蟻が足もとにいると思いなさい」と。蟻がゆっくりゆっくり近づいてくる、それが悲しみの表情だと。演技をさせない。「あんた下手なんだから」「目をこれぐらいのスピードで」と言われた。ところが映像を見ると自然で素晴らしいんですね。当時の日本のお父さん、おじいさんに見えちゃう。緒形さんは何もしない笠智衆さんにあこがれてた。辰巳柳太郎に演技ではかなわないから演技をしない人間というほうへ舵を切ったんじゃないかと思うんですよ。

生涯学習について】

 ときどき生涯学習とはどういうものか喋れって言われて喋ることがあるんですけど、ぼくは愉しいことをやればいいと。緒形さんは新国劇を辞めてでも役者をやりたくて、映画やテレビで役者を全うした。われわれもいろんな仕事をやって、それから残りの生涯をどう生きていくか。好きなことをやればいいと思う。『あつもの』(1999)という映画を緒形さんの主役で撮って、消防署に勤めて退職して、中年になってから菊をつくろうとする。厚物咲っていうのがあるんですけど、その世界に魅せられて。そこでどうしてもかなわない、コンクールで見事な菊をつくる人がいる。その一流の人を笈田ヨシさんにやっていただいて、その名人を(主人公は)訪ねていって秘密を盗もうとする。一流の人は厭な男なんだけど、つくる花は見事で。厭な部分のバランスを取るように、美しいものを彼はつくる。最後まで緒形拳の演じる男は勝てないで終わるんだけど、自分は二流に甘んじようと納得する。一流のような、無頼で菊のことしか考えてない生き方はできない。だけど一流の素晴らしさは判るから、判ったところでよいとする。一流の人は昇っていって、一生かかっても追いつけないですよ。世の中の真理はそうで、絶対というものは見つからない。ただ行き着こうとするプロセスが面白い。ぼくは、学ぶというのはそういうことだと思う。学んでも真理にたどり着かない。ギリシャ哲学から始まって人間とは、死とはとかいまだに答えが出てない。でもプロセスが愉しい。生涯学習は一生かけて頂点を目指して、プロセスを愉しむのだと思います。

 光秀も悩んで本能寺という答えを出したけど、正しい道で解決方法だったかは判らない。ドラマはそういうもので、どう生きれば幸せなのかをさがすものだと思います。結論は神のみぞ知るということです。