宗雪 たまたま “美しい日本人” という話が出ましたけれども、私どもの会社の近くに青南小学校があって、そこに「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男さんの句碑があるんです。中村草田男さんは、青南小学校で先生をなさっていたんですが、あの人も美しい日本人の一人だと思うんです。素晴らしい俳句を作り続けた人で青春の詩人と言われていますが、笠(笠智衆)さんとはまた一つ違う味を持った美しい人だなと思いますね。
笠さんには、やっぱり日本のお父さんというか、懐かしい郷愁を呼ぶようなイメージがありますね。ただ、本当に一つのことに打ち込んでいく姿が、日本人のかつてのよいイメージの一つであるという…。
山田 それと抑制を知っていらっしゃるというか、「何かをしない」ということを知っていらっしゃる。それがいいんですね。ご自分をよく知っていらっしゃるんです。
笠さんは足がちょっとご不自由なんで、NHKなんかから大船までお帰りになるときにハイヤーを用意するんです。そのハイヤーに乗って大船まで行くということが、もったいないと非常に強く思われてしまう。途中の東京駅で降りられたりされると困るので、「いいですか、笠さん、きょうは絶対家まで」と言い含めるか、もしくは誰かが一緒に乗っていかないと、途中で降りて電車に乗ってしまわれるんです。ある意味では頑固な、自分のかつて培った感受性を揺るがさないんですね。
私たちの世代は、逆にどんどん揺るがしてしまったようなところがあるのでないかと思うんです。また、どんどん新しいものを受け入れないと、やっていけない時代でしたからね。新製品がどんどん出ますから、古いものでいいなんて言っていられない。新製品の方が文句なしに便利に決まっている(笑)。どうしても、そのいわば先端で働いていたようなところが我々の世代にはありますから、そこでは「何かをしない」「抑制する」ということが非常に難しい。何とかワープロで私信は書かないとか、踏みとどまり方がセコイんですが(笑)。
宗雪 そういう古いものを捨てていくという点で言うと、年寄りを大事にしない気風というのが、日本には随分多くなっていませんでしょうか。
山田 つまり能力主義で来て、給料も能力給だみたいな風潮の中でお年寄りは辛いですよね。やはり老人になればいかに有能な人だって、効率とか何とかを問われれば、どうしても衰えてきます。
この間、司馬江漢という、江戸末期のオランダ画みたいなものを描いた人の本を読んでいましたら、彼は九歳サバを読んで、年をとっているふりをしていたというのです。つまりあの頃は老人に美があった。いまは年をとればただ悲しいというか、美しくないとされてしまって、それも極端だと思うのです。年をとるのはもちろん悲しいことだし、醜くなる部分も多いけれども、ニキビ面の若い人がただ美しいというわけではないですよね。やはり年齢を重ねた人の美というのはあるわけですから。それでも笠さんみたいな方に光が当たるということは、まだ我々にも可能性があるわけです。そういう多様な美を見る力を持ちたいと思いますね。
宗雪 そういう美を感じれる(原文ママ)ことが、すごく大事だと思いますね。ただ見ただけで美しいというだけではなくて、物事を多面的に見るというような見方が必要なのでしょうね。
山田 カメラマンとか、アーチストの責任もあると思いますし、ドラマを書く人間の責任もあると思います。いろいろなことを、いろいろな価値観で見ていかないと。例えば喧嘩が強い奴が素敵だというドラマばかり作っていれば、やはりそっちにいっちゃいますからね。ですから、いろいろなものを多様な方向から見る目をつくる責任があると思います。
戦後、得たものと失ったもの
宗雪 昨年末、『海軍主計大尉小泉信吉』のドラマをおやりになっていましたね。
山田 ドキュメンタリードラマのようなものでしたけど。
宗雪 あの本は随分ベストセラーになっていて、私も読んで大変感動した記憶がありますが、ご姉妹がお父様の小泉信三さんのことを書いた本なんかも出ていますね。
山田 それもなかなかいい文章で、ご姉妹とも素敵なんです。僕は育ちの悪い人間なんで、育ちのいい方のご家族については、あ、こういう感じなのかと思っていろいろ教えられました。
それから付随していろいろなものを読みますと、小泉信三さんは昭和初年代にロンドンに留学なさっているんです。そのころ福原麟太郎さんもロンドンへいらしているんですが、福原さんの本を読んだりすると、「日本はプロレタリア文学で沸き立っている」という。ロシア革命が成功して、まだ弾圧がない頃で、論壇は本当にプロレタリア一色になっている。「他のことを言おうとしても、言えないような雰囲気だ」という日本からの手紙を受け取ってるんです。ところが、イギリスは非常に冷静なんです。そのあたりで小泉信三さんの姿勢というか、『共産主義批判の常識』というベストセラーが戦後ありましたけれども、そういうものが育てられたんでしょうね。
以上、「FGひろば」Vol.81より引用。(つづく)