私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

蓮實重彦 トークショー レポート・『情婦マノン』(2)

 そのようなところで私が映画をじっと見ているうちに、顔面神経麻痺というものにかかってしまい、あるとき水を飲んだら全部左の口から出て来る。これはどうしたことかと病院にまいりました。不幸なことに東大病院だったんですけれども「ああいけない。顔面神経麻痺です」と言われた。「どうしてあなたはかかられたのですか」と医者が訊くので私は嘘をついて「列車の窓から左側に風を受けていたらこうなりました」と言ったら医者は「それはいけませんね」と薬を調合し、マッサージのようなことをして1か月は病院に通った記憶があります。

 ただし私が顔面神経麻痺になったからこの映画についてきょうお話しすることになったのではなくて、ふと漏らしたひとことがいけなかったわけです。『情婦マノン』(1950)においてマノンを演じたのがセシル・オーブリー。当時の私にとって美しくもない、顔が歪んだ女の人にしか見えなかった。ただ最後の最後で左側の乳房を露呈させる瞬間がありました。そのときに私は目ざめました。素晴らしいものを見た。中学2年ですから母親の裸くらいは見ましたけど、未知の女性のふくよかな乳房を見ることによって、男性ならどなたでもご存じの状態に陥ってしまいました。映画館で勃起するということを初めて体験したわけです。中学に入ってから片瀬江ノ島の川に向かって一斉にどこまで飛ぶか競争をしておりましたが、映画を見ていてふとその気になってしまったのは初めてでおそらく最後だと思います。まず年齢的に考えてもいなかったことが起きた。その罰として、私はきょうみなさま方の前で『情婦マノン』について語っているわけです(一同笑)。

 先日見直してみましたところ、乳房は露呈されるわけですが乳首が映っているわけではない。それでどうしてああなったのか、映画の力だと思います。最初からは見せていないで、イスラエルの近くの砂漠で見せたというのが力なのかなという気がしております。しかしどうも男性陣が弱いな。セシル・オーブリーに存在感はあるんですが、それ以外の男優はこんな人たちが主演である映画は見限ろうと思うくらいダメでした。みなさまがたがそうではない、優れた映画で男性陣の演技も素晴らしいと私に説得的に言っていただければ、私も考えを変えぬわけではありません。

 エビス本庄という映画館に私が父親とふたりで行き、映画を見ないでそこから出てくる人を待っていたことがあります。待っていたのは中井正一という方で、みなさまが確かなエンゲージを結べるかどうかは判りませんが、私が生まれた1936年の次の年に、治安維持法によって京都大学の講師を辞めさせられてしまいます。にもかかわらず戦後も左翼的な思想を受け継いで、文化行政に関わりを持って国会図書館の副館長になった方です。当時、国会図書館は迎賓館という誰が見ても醜い建物の中にありまして。私が小学校のころに中井正一氏が父のところにおいでになって「きみの学校はぼくのところのすぐそばだから見においでよ」と言われて、小学5年のときに迎賓館に行って「中井副館長にお目にかかりたい」と言ったら丁重に通してくれて。中井さんは「よく来た。この間は映画館で会ったね」。それはエビス本庄で彼が『ハムレット』(1948)を見ていて、私にとっては大した映画ではない。ローレンス・オリビエの作品ですが「あれはなかなかのものだよ」とおっしゃったのは覚えております。

 『マノン』についてはそれにまつわるさまざまな想い出がありまして、おそらく小川紳介さんも同じ場で同じ映画を見ているはずですし。中井正一さんはお母さまと暮らしておられて、当時は電話などありませんから誰かに会うときはいきなり行って。夕食後に中井さんのお宅に伺いましたら「正一はね、まだ映画をやめないのよ」とお母さまがおっしゃって、そこでエビス本庄の前で待っていましたら中井正一氏がすっと出てこられた。その同じ場所で私は『情婦マノン』を見てしまった。何かの因縁であろうと思い、その因縁をたどりつつ、本日みなさまの前に姿を見せた次第でございます。どうもありがとうございました。

 年末にちょっとした騒動を起こしまして、足を痛めてしまい肉離れ寸前の内出血があり、ようやく解放されました。そのため筋肉が落ちてしまい、歩くのがいささか心許ない感じがいたします。その足を痛めた大活劇をどのような場で行ったかは、お話しいたしません(一同笑)。

 

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