私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

蓮實重彦 トークショー レポート・『情婦マノン』(1)

 1944年、偶然出会った娼婦・マノン(セシル・オーブリー)に魅せられたロベール(ミシェル・オークレール)。奔放なマノンはやがて身を持ち崩し、ふたりは破滅へ向かっていく。

 『恐怖の報酬』(1953)や『悪魔のような女』(1955)などで知られるアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督による『情婦マノン』(1950)が2023年に渋谷で上映され、蓮實重彦氏のトークもあった。蓮實先生はクルーゾーを評価していないそうで、それゆれ全編ねた的な話がつづいている(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分も)ございます。ご了承ください)。

 2023年はひとつの大きな謎によって始まることになります。何故私が『情婦マノン』のプレゼンテーションをしなければならないのか。ルノワールがいる。ジャン・グレミヨンがいる。ジャック・ベッケルがいる。マックス・オフュルスがいる。それぞれは世界映画史の大傑作を撮っている人たちです。ところがクルーゾーという人は世界的な傑作などは1本も撮っておりません。何故私が、クルーゾーなどの話に、ここに座っていなければならないのか。誰にも判りません(一同笑)。

 私が13歳のときに見たということは確実な事実であります。中学2年のときに見ました。エビス本庄という映画館がありまして、通っていたのは私だけではなく故・小川紳介さんもそうだったとつい最近、私は知ったのですけれども。何故この映画を見たかというと7本立てのうちの1本だったからです。エビス本庄は3本立ては当然で、7本立てということもごく普通にやっていた。名画座ではないですね。帝都名画座、日活名画座のように名画座とついてはいなくて、エビス本庄はあくまで三番館、四番館といった古い映画をかける。中学生の私にとっては行きやすい。渋谷からも近いし。『情婦マノン』を見に行くと言ったらうちでは多分許してくれなかったでしょうが、きょうはあそこに行くと言ってだますと何であれ見ることができたわけです。そこで私が発見したのはルネ・クレール。戦前のものは日活名画座、帝都名画座で見ておりましたが、戦後のルネ・クレールの映画はエビス本庄で見たわけでございます。見た映画はそればかりではなく、その中に恥多き『情婦マノン』が含まれてしまっていた。

 私が初めてこの映画を見たときは全く退屈な映画だと思いました。先日DVDで見直しましたがやはり退屈で、どうしてこんなにたくさんの人が集まるのか(一同笑)。もし見ていただくなら『エドワールとキャロリーヌ』(1951)を見ていただきたい。それを見ずして来られた方にはどのような対応をとるべきか。ルノワールでは『黄金の馬車』(1952)。これを見ないで来た方、手を挙げ…なくて結構ですので(一同笑)静かに恥じていただきたい。オフュルスの『たそがれの女心』(1953)、これを見ずにおいでになった方、私がじわじわ責めてまいりますからそうお思いくださいませ。一大傑作と言ったら、ことによったらジャン・グレミヨンの『曳き船』(1941)ではないかと思っております。ごらんいただいた方はどのくらい…? (挙手を見回して)まだまだ私が喜ぶような数ではございませんが『曳き船』を見ない方とはつき合わない。見てもつき合わない方もいますけれども(一同笑)。『曳き船』はマキノ雅弘と同じような海岸が出てまいります。それだけでこの映画の素晴らしさがお判りになる方はお判りになりますが。それに比べると『情婦マノン』は戦後の映画ですけれども、これというところがないんですね。

 クルーゾーは戦時中から映画を撮り始めて、当時はドイツとの協力なしには撮れませんでしたから、戦後になって(ドイツの協力者ということで)制作が一時禁じられていた。さらにいろいろなことがありまして、戦後も撮れるようになりました。

 この『情婦マノン』は一応ベネチア映画祭に出て人びとを昂奮させたということですが、中学生の私にとってはちんぷんかん。何故あの人たちが、らくだに乗った人びとに追われるのか。ユダヤ人たちがエルサレムを目指すなどという歴史的事実は全く知りませんでした。ただしガブリエル・ドルジアという素晴らしい大女優のやっている曖昧宿、こういうのがパリにあるだろうというのは私にも察しがついておりました。しかし、それにしても面白くない。私はほとんどうとうとしていたかのような気がいたします。エビス本庄は本当にきたないところで、真っ平らで前の人の頭が半分ぐらいスクリーンを覆う。お手洗いの匂いが入ってくる。(観客が)いっぱいだと扉が閉まらないので外の灯りも入ってくる。(つづく