私の中の見えない炎

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田中陽造 トークショー レポート・『セーラー服と機関銃』『ツィゴイネルワイゼン』(3)

相米慎二監督の想い出 (2)】

 田中陽造氏は、自身が参画していない相米作品もご覧になっている。

 

田中田畑智子が子役のときに出た『お引越し』(1993)のとき、相米が「見てくれましたか!?」って元気に来て、ああ見たよって言ったら「ちゃんとカット割りしてあるでしょ。できるんですよ、おれだって!」って(笑)。

 「おれって猿みたい」って言うから、ああ柱登れって言ったら、禿げてるのに柱を登り始めた。ぼくと会ってるときだけはひょうきんでしたね。

 やっぱりあの(『セーラー服と機関銃』〈1981〉の)ころ、相米はいちばんよかったですね。『夏の庭』(1994)を相米とやったけど、つまんなかった。相米にどうしてつまんないのって言ったら、あの年の夏は天気が悪かった(一同笑)。どうして天気が悪いと映画がダメになるのって言うと、子どもたちが成長しないんですよって。相米はそうやってつくってる。他の相米映画では子どもが成長してて、『夏の庭』は天気が悪くて成長できなかったと。

 晩年の『あ、春』(1998)と『風花』(2001)も、やっぱりどうも馴染めなかったね。相米はどこにいるのかなって、ちょっと判らなかった。

 相米が来て「陽造さん、これ(『壬生義士伝』)書いてください」って。ちょっと他の仕事があるんでって言ったら「そんなのダメです、そんなの止めてこれ書くんですよ!」。マネージャーでもないのに(一同笑)。強く言われたのは、初めてでしたね。2、3か月して書き終えて、誰かに電話したら「相米さん、亡くなりました」って泣きながら言われた。2か月くらい前に会って書いて、これで映画になるなって思ったら死ぬ。そういう別れ方ってひどいな、相米…。こないだ墓へ行って、そう言ってきました」 

【『ツィゴイネルワイゼン』】

 鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(1980)は、田中氏にとっても清順監督にとっても代表作であろう。

 

田中「内田百閒の「サラサーテの盤」って短篇があって、それをもとに脚本書いて映画になったんですけど。著作権を持ってる人が脚本を読んで、こんなものに「サラサーテの盤」のタイトルを渡せないと。じゃあやめようかって話になったんだけど、映画化には異存はないらしい。それで『ツィゴイネルワイゼン』っていうタイトルになったんですね。このホンは、自分でも驚くほどですね。原作は節々で使っていますね、呆けちゃって記憶がない…。

 ぼくの家内の母親の実話も出てきます。弟を火葬にして、帰ってきたら骨が赤くなってた。そういうのを使いましたね」  

 ルポライター時代の想い出】

田中ルポライターのとき、人間ってこんななんだって脳髄に叩き込まれたというか、否応なく見ましたね。東大医学部教授の本郷のお屋敷に行ったら、壁面にちょうちょが貼りつけてある。教授は、これ入れ墨だよと。死んだらすぐ、その遺体の皮を剥ぐ。するとちょうちょのようになるんだと。いままでどのくらい解剖したんですかって訊いたら、まあ2000体くらいかなと。

 あとネズミを殺す駆除の人とか。網にかかったネズミを、大きなバケツに水はって、そこに棄てる。ネズミは苦しんで泡吹いて死ぬと。見たくないなって思ったけど。

 ポルノの写真の蒐集家とか、ブルーフィルムのもっと過激なやつのコレクターとか。奈良にあるそのうちへ行ったら、私の鞄が空いてて、その前の日に取材したコレクターの名刺が入ってた。

 京都の博物館の、ある一角が女の長襦袢、足袋、下駄、かんざしとかそんなので埋まってて。その人(持ち主)が日本最高の春画のコレクター。最初は春画に興味なかったけど、女の衣類や身につけるものが好きで集まってきて、残りは春画しかない。日本の絵画史上最高なのは歌麿春画歌麿って言っていました。一生かけてコレクトした人がたどり着いたのは歌麿なんだ。でもAVとか出てくるとあまり神秘性もないね。

 変な人っていっぱいいるなって思ったね。その(ルポを書いた)雑誌も棄てちゃった(笑)」

 

 弟子筋の脚本家・荒井晴彦氏の回想(『争議あり』〈青土社〉)には田中氏の厳しさが書かれていたが、壇上の田中氏は「ちょっと」と言ってトーク中にトイレに行ってしまうような飄々とした方で、井川耕一郎氏の「自由な人だな」と笑っていた。 

 

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