私の中の見えない炎

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高橋洋 × 塩田明彦 トークショー レポート・『ザ・ミソジニー』(1)

    

 劇作家(中原翔子)に、洋館に呼ばれた女優(河野知美)。彼女は劇作家の夫を略奪した過去があった。母を殺す役を演じるうちに女優はおそろしい疑惑にとりつかれていく。

 高橋洋脚本・監督『ザ・ミソジニー』(2022)は、人里離れた洋館で繰りひろげられる奇怪な台詞劇。公開から3か月後の2023年1月に菊川にて高橋氏と塩田明彦監督のトークが行われた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【ビジョンと現実】

塩田「ぼくと高橋洋のつき合いは長くて、ぼくは立教大学でこの人は早稲田大学。大学は違うんですけどあるとき知り合いまして、ぼくは高橋さんの8ミリ映画の撮影として参加したことがあるんですよね。お忘れですか」

高橋「覚えてます。そうでした」

塩田「その中で男の登場人物が死ぬんですけど、死に方がハーケンクロイツの形をして死ぬ」

高橋「『ハーケンクロイツの男』(1986)ってタイトルの映画だったね」

塩田「元ナチスの逃亡者だったという設定。それで高橋さんがハーケンクロイツの形を後輩の出演者にやらせるんですよ。「まだハーケンクロイツになってない!」って言って。(後輩は)手足の長い人ではなかったんですけど「もっと足曲げて!」。後輩は痛みをこらえてやって高橋さんは見下ろして「頭が邪魔なんだよ。頭があるからハーケンクロイツに見えない。切り落とせ」」

高橋「(笑)」

塩田「目をらんらんとして、という記憶があって。この人は被写体の頭は切り取っていいと。高橋さんの頭の中にはハーケンクロイツの死体が完璧にあるけど、現実はそうならない。ビジョンと現実とは折り合わない。普通はそこで学びがあるわけです。容赦のない現実にシフトしていくのが映画づくりだと。高橋洋はそうしない。そのハーケンクロイツの死体は『女優霊』(1996)の手足の曲がった死体に受け継がれています。あるビジョンを執拗に追い求めて具象化しちゃう」

高橋「そうかもしれないね。映画美学校生には現実をわきまえろって言ってるんだけど、自分はやってない(笑)」

塩田「脚本はみんなで話し合ってつくるもんだって言ってても、いざ自分がやるときは完璧に書いてから持って来る」

高橋「話してもなかなか通じないからね。結局、書いちゃうんだよね」

塩田「人のせいにするな(笑)」

【光の恐怖 (1)】

塩田「今回の『ザ・ミソジニー』は素晴らしい映画だけど、高橋さんの執念が結実しつつあると思っていて。『霊的ボリシェヴィキ』(2018)からも崩してきていて、ただ一貫しているのが光の問題。あるとき高橋さんは、怖いのは光だと言い始めた。闇ではないと」

高橋「何でかねえ。はるか昔に『恐怖』(2010)っていう映画を撮って、ぼくの中ではお金がかかってるほうの映画ですけど(笑)あれをつくってるときにそう思いましたね。光が主題だったというのもありますけど」

塩田「ぼくが代弁すると、高橋さんが『恐怖』を撮ったときは心霊ホラー映画が飽和状態に陥って、闇があってその中に見えるものが…っていうふうにパターン化。これを打破したいと七転八倒していたのをぼくは横で見ていたんですよ。心霊ホラーのベースは光と闇で、闇が怖い。そうじゃない、光が怖いんだと高橋さんは逆転させたいわけですよ。光と闇という二項対立がいかん、光は闇だと高橋洋はあるとき思ったんですよ(笑)。善と悪、愛と憎しみみたいな二者択一。そこから起承転結の物語ができていく。光が闇だと二者合一で、ストーリーの展開はなくなってあるビジョンですよ。この試行錯誤を高橋さんはずっとやってきていて、ぼくは高橋さんを見ていて光は怖いと思う。

 ポイントはプロジェクション。高橋さんは光源に執着しているけど、それが照明の光源であってはいけない。光源に突破口があると考えている節があって、光が投影されるのに何か見出した感じがある」

高橋「フロント・プロジェクションを取り入れるようになったのは、映画美学校でつくってる短い映画のときに、たまたま撮った映像をモニターでなくすぐプロジェクションできるのが開発されたんですね。ハンディカムで。すぐ製造中止になっちゃったんだけど。それをさがして使ってた。顔に炎をめらめらめらっと投影して。日本の怪談みたいに、鬼火が飛んでるような意味合いを表現できる。それが2005、2006年ぐらいかな。そのうち短編映画で『夢の丘』(2019)っていうので人間の顔が二重にあって何とも同定し難い顔にするとかやったり。合成じゃなくて画をべたって乗っける。中瀬慧くんが撮影で思いのほかうまく行って。予算のない中で、プロジェクションで独自の表現方法が見つからないかなと考え出した」

塩田「『うそつきジャンヌ・ダルク』(2012)でもさんざんっぱらやってますね。今回も怖かったですよ。女の人の写真が投影されるだけでこんなにおぞましい。血まみれでもないのに。理屈だとかつてJホラーでは、呪いというのは見てしまって取りつかれる関係性。それを高橋さんは打破しようとしてて、プロジェクションで呪いを浴びせる。受動的だった呪いが能動的、攻撃的なものと化す。呪い返しで光に対して光で、スマホでシャッターを切ったり」(つづく