私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

ほんとうに家族はいいものかしら・『今朝の秋』(2)

 『今朝の秋』(1987)は脚本の山田太一にとって愛着のある作品のようでトークイベントでも自薦の1作として挙げて「家族全員の心は通っていない。でも最期だから芝居を、家族団欒の芝居をしようと」「(ラストシーンの)笠さんと杉村さんも、心が通っていない。だから辛(から)い話なんですけど、そういうのを書きたかったんですね」と述べる。

    この時期は山田の妻が体調を崩していたようで(「AERA」1994年10月31日号)何らかの本音が反映されていると見てしかるべきだろう。杉浦直樹演じる息子の53歳という年齢も執筆当時の山田と同じである(自分の身の回りのことは作品に使わないという山田だが、見ていると自身のことではないかと思う場面はある)。
 『今朝の秋』を見ていて、筆者には家族が苦境にあって絆を取り戻したように映った。だがそれは山田の意図と全く異なっていたことになる。妻と娘との会話は映像でもシナリオ通りである。 

 

悦子「お父さんも半分ぐらいは覚悟してるみたいだけど、なるべく知らん顔しててね」
紀代子「(まだ動かない)」
悦子「二時の特急の指定券買ってあるの。蓼科、行こう」
紀代子「——————」
悦子「保彦も、いつか呼ばなきゃと思ってたけど、急には無理だし、とにかく、蓼科で、お父さんかこんで、二、三日送ろう」
紀代子「バイトきりあげて、帰って来たこと、なんていうの?」
悦子「気に入らなくて、とかいえばいいわよ。深くは聞かないわ、きっと」
紀代子「最後の一家団らんってわけ?」
悦子「——————そうね」
紀代子「ニセモノの一家団らんね」
悦子「どうして?」
紀代子「男がいるの知ってるのよ。別れようとしてたでしょ? みんな、知ってるのよ」
悦子「——————」
紀代子「よくそれで一家団らんなんて出来るわ」
悦子「人間てね、夫以外の人、好きになっちゃうことあるのよ。どうしても好きになっちゃうこと」
紀代子「よしてよ。子供に、そんなことよくいえるわ」
悦子「子供だって、現実は知るべきよ。結婚したって、そういうことはあるの。努力したって、別れるしかないこともあるのよ」
紀代子「だったら、お父さんのことなんか、ほっとけばいいじゃない」
悦子「その方がいい?」
紀代子「——————」
悦子「あまり長くない人を、ほうっておくお母さんの方がいい?」
紀代子「——————」
悦子「嘘でも、生きてる間は、一家団らんやっちゃおうっていうのと、どっちがいい?」
紀代子「どっちもやりきれないわ」
悦子「その通りだけど、他に道はないわ。だったら、多少、人に優しく出来る方を選んだ方がいいでしょ?」
紀代子「お父さんを愛せばいいじゃない。お父さんを愛しなさいよッ」
悦子「努めてみるわ」  

    そして「ニセモノの一家団らん」が始まるのだが、シナリオには以下の指示がある。 

 

●  蓼科・牧場
 牛のいる景観。
 レンタカーが停まっている。
 鉱造、隆一、タキ、美代が、おりてその景色を見ている。口数は少ない。

 ● 走る車から見た遠景蓼科の美しさ。

 ● 蓼科の道走って行くレンタカー。

 ● 宮島家・表(夜)

     花火をやる紀代子、悦子、タキ、鉱造、そして隆一。口数は少ない。 

 

 ト書きを読むとたしかに仲の悪い者同士のぎこちない道中に思えるけれども、映像では樹木希林のアドリブもあり、美しい蓼科の風景にも幻惑されるのか愉しげに思える。夜になって座敷で「恋の季節」を歌ってみなで盛り上がる。このくだりはシナリオ通りなのだが、俳優たちは和気あいあいと仲良くなったように演じていて幸せ芝居には見受けられない。死期の迫った息子は「錯覚しそうだよ。家族っていいなって」とつぶやき、シナリオならば嘘と判った上でだまされるという救いのないものでも、映像では「家族っていいなって」という台詞は悲劇の中で一縷の希望を見たようにとれる。『今朝の秋』を検索すると壊れた家族が愛情を取り戻すさまを描いたという主旨の感想が散見されるけれども、この映像ではある意味で当然の受け取り方ではある。演出の深町幸男などスタッフが、視聴者が共感しやすいように “つかの間の家族再生” だとシナリオを意図的に曲解したのではないか、と筆者は解釈している(俳優にしても偽りの団らんなどにかまけるより、自分たちが愛を取り戻したと視聴者に思われたいはずであろう)。ちなみに山田と深町が組んだ『シャツの店』(1986)でも微妙な改変は多く、例えば第1話で八千草薫が帰るシーンではシナリオに「微笑して戸を閉めて去る」とあるのみだが、完成作品では名残惜しそうにゆっくりと辞去している。一方、第5話では平田満が帰る場面では「勝手口から帰ってしまう。ドア閉まる」とのト書きに忠実にさっさと出て行っており、第1話の八千草の動きにはやはり意図を感じる。

  『今朝の秋』でダークな家族劇を極めた山田は、この後に小説『丘の上の向日葵』(新潮文庫)やテレビ『チロルの挽歌』(1992)などで家族解体後の新しい共同体のイメージを求めていくことになる。