私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

白井佳夫 トークショー “阪東妻三郎 田村高廣 永遠の親子鷹” レポート(3)

田村高廣について (2)】

白井「今回上映できなかったものでは『女の園』(1954)は高廣さんのデビューで、いい役でね。優しい青年が高峰秀子の恋人で追いつめられていく。俳優をやろうなんて思ってない人が、素のままの自分を出すことで作品の力になる。そういう役を木下(木下惠介)さんが書いてるんですね。

 高廣さんに阪妻を襲名しろって話も再三再四あったけど、できないと。「私と親父は違いますし、とても親父には及びません」って。そんなことないですよ、あなたは木下惠介にいい役を与えられて現代劇の俳優として成長したって言ったんですが。今回やはりできなかったんですが、松竹大船の『涙』(1956)もよかったです」

 

【その他の田村高廣作品】

 この日に上映されたのが山本薩夫監督『白い巨塔』(1966)。田村高廣は準主役的な里見助教授役を演じている。

 

白井山本薩夫さんと対談したときに「あなたは赤いセシル・B・デミルですね」と言ったんですよ。さすがに厭な顔をされましたね(一同笑)。「私は大衆に服務してるつもりで、大衆を裏切ってるつもりはありませんよ」って言われて、それで一杯やることになって対談は中止で1時間ばかり酒の応酬がつづいたんだけど。当時の山本薩夫はメロドラマもアクションも忍術映画もホームドラマも何でもやれた。日本共産党マルクス主義者という信用があって、どんな題材でも自分なりの映画がつくれると。その典型が『白い巨塔』で、正直に言ってぼくは『白い巨塔』が嫌いです(一同笑)。これが正しい日本映画なのかというと、違うんじゃないか。もっと医学システムの中の封建制度を描かないといけない。こんなにメロドラマっぽく、旧来の日本映画っぽくつくっちゃいけないんじゃないか。私は編集長をやってた時代に、「キネマ旬報」で選出されるベストテンは私にとってはワーストテンだと思ってた(一同笑)」

白井「高廣さんは熊井啓の『天平の甍』(1980)もあって、熊井とは義兄弟ってくらい仲がよかったけど熊井の映画としては…『黒部の太陽』(1968)と並んでアンチ代表作」

鈴木「高廣さんの日記をお預かりしていて、なかなか出版にこぎ着けられないんですけど。それによると大作の『天平の甍』で賞を取りたかったんだけど取れなくて、その翌年の小さな『泥の河』(1981)で取ることになってご自分でもびっくりして」

白井「『泥の河』は(モノクロで撮って)上手く映画評論家の盲点を突きましたね。ぼくは『泥の河』が大っ嫌いです。(小栗康平)監督と大論争を2時間やったこともある。カラー・ワイドになってる時代に昔の話だから黒白で撮るって卑怯だって言ったんですよ。カラーで撮って現代の眼で映画にしてみろ。少ないお金で大手のカラー・ワイドの大作に対抗しようって気持ちは判るんだけどね、だからって黒白スタンダードに逃げ込んじゃいけないよね。その次の作品で試写に行ったら、監督は向こうを向いたままきょうの映画は色がついてるぞって(一同笑)。『眠る男』(1996)というのでそれでもダメでしたね。ああいう何がなんだか判らない映画はいけません。反論がある方は手紙出してくれれば、こっちも反論を書きます(一同笑)」

【その他の発言】

白井伊藤大輔は京都の大監督で、新人監督は3本くらい撮ったらお正月に伊藤邸に行って「私も3本目を撮らせていただきましたので、そろそろ日本映画監督協会への加入をお認めいただけないでしょうか」って言って「よし」と言われないとダメだった。加藤泰はそれによって教会加入が10年近く遅れた。(革新派の)伊藤大輔も自分の仕事になると強固な封建的な枠の中にいた。決して神話化してはいけない」

 

 作家の高橋治は松竹に勤務して映画『死者との結婚』(1960)などの監督も手がけている。

 

白井「高橋治さんは小津安二郎の助監督を3~4日やったらしいですね。それで直木賞候補作に小津のことを書いちゃったらしい。当時、松竹のパーティーに出たら、小津さんの専属キャメラマンが「白井さん、今度小津組で集まって高橋治をぶん殴ろうと」って。3~4日しか助監督やってないのにあることないこと書いたから、ある料亭に呼び出してぶん殴ろうって話があるんだって。厳しいもんだなと(笑)」

 

 白井氏は『きけ、わだつみの声』(岩波文庫)などの朗読も阿佐ヶ谷で行っているという。

 

白井「『無法松の一生』(1943)が封切られた昭和19年は、学徒出陣壮行会が神宮球場で行われたころです。大学生は20歳になっても兵隊に行かないで学業を継続してよろしいということだったんですが、戦争が窮迫してそんなこと言ってられなくなって20歳になったらすぐ志願して外地に行きなさいと命令が下るわけですね。そのころ阿佐ヶ谷に住んでた東大経済学部の学生が出征して、1年半後に南方戦線で戦死する。その彼が書いた『きけ、わだつみの声』という手記が残ってる。

 阿佐ヶ谷で朗読すると雰囲気が緊迫しますね。われわれが帰ろうと思ったら、市民で聞いてた人が「私がその学生の姉です。きょうは彼の命日です」って言われました」

 

 時間がオーバー気味で白井氏は最後に「後世にキネマ旬報の編集長時代の白井佳夫ファシストだったって言われるかもしれないけど、実験的なことをやると後世にそう言われるものでね。なんてかっこいいこと言っちゃって」と笑わせていた。