【映画初期と阪東妻三郎 (2)】
白井「阪妻さんのやったことはものすごく…。高廣(田村高廣)さんが書いた阪妻さんについての本があって、父親の部屋の押し入れに本が積んであって、見たら発禁の本で持ってたら罪になるようなものがうず高く積んであったと。社会主義、共産主義、部落差別、身障者差別に関する本。『無法松の一生』(1943)の無法松は被差別部落の人ですね。そのことは部落解放同盟の連中も認めています。『王将』(1948)も被差別部落民の話で、字が読めなくて書けないけど将棋だけは滅法上手い。阪妻さんはそういう考えを持ってたんじゃないでしょうか。そうじゃないと『無法松』も『王将』もやるというふうにはいかないね。
そもそも東京で生まれた人なのに時代劇の俳優になりたくて京都に行ったわけ。その阪妻さんの京都の家で育った高廣さんは、役者になる気はなくて東京の商社に入る。大きく分類すると阪妻さんの映画は京都派で時代劇系。高廣さんは東京系で現代劇が多い。もちろん時代劇もやってるけど」
【田村高廣について (1)】
白井「高廣さんと知り合ったのは彩の国芸術劇場で『無法松の一生』を中心とする日本映画史みたいな上映があったんですよ。そのとき対談することになって。通説では高廣さんがかねて俳優になりたいと思っててお父さんの阪妻さんに相談して「おれのことを『破れ太鼓』(1949)で上手く使った木下(木下惠介)監督にお前を託して俳優にしてもらう」と言ったと。そう話していいですかって訊いたら、高廣さんがちょっと真剣な目をして「きょうは、その話はやめてもらえませんか。親父が50代で急死したとき、私は同志社大学を卒業して東京の商社に入るつもりでした」と。ところが松竹から莫大な借金があるという書類が届いた。とても商社の社員が地道に返せるお金ではない。松竹の俳優になってギャラから返すしかないと思って俳優になったと。俳優になって大金をもらおうなんて気は毛頭なかった。高廣さんらしい生き方ですね。「私は石橋を叩いて戻る男だ」と言ってました(一同笑)。そのくらい慎重に生きてる。だからその日は話しませんでした」
鈴木「本当はやりたくなくて「阪妻を継ぐんですね?」って訊かれて「うう」と言ったのがやる意味だととられて「2代目デビュー」と新聞に書かれてやらざるを得なくなったとインタビューで話しています」
白井「当時、阪妻クラスが1本完成させると、映画会社はその晩、京都の芸者屋さんや料理屋さんを3軒くらい借り切って、スタッフも出演者も飲んだり食ったりする。その金が阪妻さんにかかってくる。借金を大きくして他社に引き抜かれないようにする。昔のお女郎屋さんの経営者と同じやり方ですよ(一同笑)。そのかわり阪妻さんクラスになると監督が休憩時間に「監督、次はおアップちょうだいいたしたいのですがよろしいでしょうか」「よかろう」。そのくらい当時のスターはすごかった。
高廣さんは「白井さん、私は親父にとても及びませんよ」って言う。そんなことない、あなたがやった『兵隊やくざ』(1965)は阪妻に匹敵すると言いました。その次の『清作の妻』(1965)は村の模範的な青年と結婚した女性が、夫が軍隊にとられそうになるので針で目を突いちゃう。とんでもない反戦映画ですね。
『兵隊やくざ』は勝新太郎っていう京都のスターと東京の高廣さんとが、ぼくがいちばん評価してる増村保造監督と組んだ映画ですね。何本も続編がつくられましたけど、増村の第1作以外にぼくはあまり認めていません。
(この2本を監督した)増村保造はすごい人で、東大を出て戦争に負けたんでこれからは文化の時代だって大映の助監督になって、その間に東大のもうひとつの学部を出席しないで試験だけパスして卒業しちゃったという天才。イタリアのムッソリーニが戦争中につくった映画都市チネチッタに映画実験センターというのがあって、増村は第1期生として留学してます。現地でたちまちイタリア語を覚えて、卒論で黒澤明論を書いた。イタリアに行くと、いまだに開校以来の秀才ということになっています。
話が戻りますが、京都派の男は文字が読めなくて浪花節をうなる。肉体的な力はあって粗野な人間。東京派は、肉体は弱いけど論理の筋は立って頭が明晰。肉体だけの勝新太郎と精神だけの高廣さんが組んで陸軍の内務班に、国家に反抗する。最後に車で逃げて、この車はヨーロッパにつながってるって」
白井「『清作の妻』は若尾文子さんが出てるからそれで大映が商売して、貸してくれないと(それで上映できない)。
京都派の阪妻さんと東京派の高廣さんはつながってて、世の中を誠実に見ていきたいという。そのことを声高に言うんじゃなくて、庶民の目で見て批判していきたいと。その意味であのふたりは結ばれてて、阪妻は時代劇でやって高廣さんは現代劇でやった。いまごろ上で抱擁してるんじゃないか。
悔やまれるのは川喜多長政さんっていう東宝東和の社長さんと話したときのことですよ。そこへ電話1本かかってきて「映画製作者連盟の国際映画祭への出品を選ぶので、今年もろくなのがないので出品はなしだと言ってる」って。『兵隊やくざ』か『清作の妻』を出したらどうかって言ったら、そんな商業映画だめだと。その年にカンヌかヴェネツィアに出品されたら、北野武が『HANA-BI』(1998)で受賞するより早く賞を取ってたかもしれない。いつまでも『羅生門』(1950)じゃないだろうと」(つづく)