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遠藤利男 × 今野勉 × 滝田栄 トークショー “岩間芳樹ドラマの魅力を語る” レポート・『ビゴーを知っていますか』(5)

【『ビゴーを知っていますか』と合作ドラマ (2)】

遠藤NHKが中国と共同制作した最後の大作が『大地の子』(1995)ですが、80年代の終わりから中国と共同制作を始めました。その橋掛かりの最初が岩間さんなんですね。日中の共同制作では筆を執ってないんですが、80年代の中ごろに岩間さんに「上海のテレビ祭が始めるということで審査員を日本から求めているんだけど、行ってくれないか」と誘われて、第1回の上海テレビ祭の審査員に行った。行ったら岩間さんも来ていて、そこで中国のテレビドラマの人たちを紹介してくれて、親交を持つようになりました。

 共同制作というと中国のチェックが入って、いつまで経ってもホンが出来上がらない。そこで中国の協力という形にしてつくり始めたのが『流れてやまず 長流不息』(1992)です。中国全体のトップである上海電視台の局長と岩間さんは仲よくなっていて、何故かよく判りません。岩間さんは上海の街も案内してくれて、当時の私は小籠包を食べたことなかったんですが「ここは小籠包がいちばんおいしい」「ここの骨董屋がいいんだよ」とか。どうやって岩間さんがそれだけ学んで、親交を結んだのかよく判らない。ただし岩間さんの視野の広がりを向こうは信頼してたんじゃないかといま思ってます」

 

【その他の発言】

遠藤「当時ぼくらが、ラジオやテレビでいっしょにやってたのは大先生でした。その中でぼくらと対に話して共有してくれて、いい作品になって上がってくる。岩間さんは本当に重要な存在だったと思ってます」

今野「ぼくも若いときにドラマを始めたころに、脚本の偉い先生とやるのが億劫で(笑)。ほぼ同年代の作家とで、いちばん多かったのが佐々木守です。せいぜい2~3歳上ぐらいの脚本家としかほぼ仕事をしてないですね。その中では岩間さんは少し上だったですが、隔たりを感じさせない自然さがありました。素直にやり取りできたのを思い出しました。ぼくがつき合った脚本家の中ではいちばん年上かもしれませんが稀有な人でしたね。歳を感じさせないのも岩間さんのよさで、どうやって作品をよくするか対等に話し合って共同作業ができました。感性が合ってたんだなと思います」

滝田「ぼくに興味を持ってくださって(笑)。ぼくも舞台畑でやってきて、文学座から四季に移ったんですが映画は斜陽で粗製乱造。舞台は旧態依然でどうにもならなくて、テレビが活気づいてくるころでした。テレビに行くって言ったら、映画の人もテレビの人も「電気紙芝居へ行くのか」って。テレビをものすごく軽蔑していた。でもぼくはそう思わなくて、可能性を感じていて何かできるんじゃないかという直感があったんです。見た人が打ち震えるような感動をつくり出すことができるんじゃないか。

 テレビをやると宣言しての1作目でなべさん(司会の渡辺紘史氏)と初めてやったのが『草燃える』(1979)でもう面白かった。映画にも舞台にも負けない、かましてやると燃えていて。岩間さんも見てくださって、面白がって使ってくれるようになった。岩間先生はあらゆる方向からぼくを見てくれて。偉大な作家を失って淋しいんですけどね(笑)」

遠藤「テレビドラマの広がりの中で、岩間さんの歴史と時代を重視してドラマをつくるというのは本道のひとつだと思うんですね。

 1999年に岩間さんが亡くなって、腹部大動脈瘤破裂だそうですが、司馬遼太郎さんもそれで亡くなった。破裂すると大抵の人は亡くなる。いま生きていれば92歳でまだ執筆していたかは判りませんが、歴史と時代に向き合っていたんじゃないかと思います。私も間もなくそばへ行くよと、岩間さんを思い起こしていたいと思います」