私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

古谷敏 × 佐藤利明 × 切通理作 トークショー “本物がここにいる!” レポート・『ウルトラマン』(1)

 『ウルトラマン』(1966)のスーツアクターや『ウルトラセブン』(1967)のアマギ隊員により知られる古谷敏。映画『シン・ウルトラマン』(2022)でもモーションアクションアクターを務めている。

 『シン・ウルトラ』の公開などによって改めて古谷氏に注目が集まっており、4月に阿佐ヶ谷にてトークイベントが行われた。聞き手は娯楽映画研究家の佐藤利明・批評家の切通理作の両氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【少年時代】

古谷「ぼくは7人兄弟でそれは、昔は大家族のうちには入らないですけど、その中でちゃらんぽらんに生きてきたんですけど。職人の町で、笄という髪飾りやかんざしをつくる人がいっぱいいらして、江戸時代は廓があったらしいです」

佐藤「同じ町内で赤木圭一郎さんも生まれたとか」

古谷「そうですね。日活で大スターになる寸前に事故で亡くなってしまった。近所ですけど接点はなかったですね。ぼくは日活の映画はあまり見なかった(笑)。

 ただで見られる映画があって、町内会とか区がお金を出してくれて、お寺の境内や小学校へ行って見て。娯楽が映画しかなかったですよね。鞍馬天狗とか大河内伝次郎さんの丹下左膳とかの時代劇。東映が多かったかな。その後はリアルな時代劇になってしまうんですが、お芝居としての時代劇は東映や松竹でしたね。映画は娯楽だというのがあって、そういう思いで70年以上生きてきました(笑)。鞍馬天狗がぼくのヒーローですよ。心にしみる日本語が映画の中にいっぱいあって「杉作、日本の夜明けはもうすぐだぞ」とか。映画をお寺の境内とかで見て、近くの青山墓地に行って台詞を喋ったり。

 大きくなって、映画館がどんどんできてきて。お寺や校庭で映画をやってくれない時代になって、映画館にはお金がいるんで、祖母にもらったり。あとはアルバイトすればいいんだと。映画のためならどんなに苦しいアルバイトでもできる。新聞配達や牛乳配達、自転車に乗れないんで手で持って。アイスクリーム屋さん、当時はアイスキャンディーですけど。暮れになるとお蕎麦屋さんでお皿洗って。お正月はお寿司屋さんの出前。あのころはお正月にお金持ちはお店に行かなかった。まだ小学生ですけどアルバイトを一生懸命やった。映画のために(笑)。当時は小学生でも近所の子どもだからいいよと。

 (印象に残っている映画は)『シェーン』(1953)ですね。ぼくの映画の歴史の第1歩。映画を見た翌日は学校で必ず立たされるんですよ。宿題をやってないから(笑)。立っている間は勉強しなくていいんで、きのうの映画の中に飛び込んでいける。全然苦にならなくて、罰則じゃない。世界の地理が頭に入ったのも映画のおかげですね。アメリカの首都はワシントンだとか」

シェーン(字幕版)

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東宝での青年期 (1)】

古谷ジェームズ・ディーンの『エデンの東』(1955)と『理由なき反抗』(1955)に背中を押されました。ぼくが東宝芸能学校に入ること自体、先生も家族もよく判らなかったようです。すぐ上の兄貴は大工さんで、鳶屋を継ぐみたいな感じでしたから。芸能学校のテストには受かって、2年間勉強して。(講師として)俳優座の有名な演技の先生、日舞の方がいらしたり。2年目で自分の進路を決めていいよということで舞台に行く人、日劇ダンシングチームに行く人、撮影所に行く人と。そして東宝撮影所の15期ニューフェースに入れたわけです。二瓶正也といっしょに(笑)。それだけでも大変だったんですよ。この15期はニューフェースの最後になってしまいましたけど。

 東宝に入って聞かされたのは、赤木圭一郎さんや宍戸錠さんというふうに日活はスターをつくるということです。その人に合う映画。でも東宝はまず俳優に関係なくホンがあって(その後で)誰を主役にするかということになる。スターをつくる映画会社じゃない。「東宝でスターになるのは大変だよ。日活や大映に行ったほうがいいよ」って言われたんです。でも入って東宝という会社の雰囲気は素晴らしいと思ったんですね。食堂に行ってごはんを食べてると、隣に三船(三船敏郎)さんがいるんですよ。ぼくなんか若いから、箸が震えるくらいで。隣にいても平気な会社です」

佐藤「『モスラ』(1961)の4Kを見たときに、それまで気がつかなかったんですけど敏さんが」

古谷「いろんな映画に出ました。新人はB2というランク。Aはスターさんで、B1は脇役さんで名前の知られてる素晴らしい人。B2に若い人もお年寄りもいて、その中から這い上がっていきなさいよということ」

佐藤「『モスラ』はインファント島の島民と電子熱戦砲の近くにいる役ですね。1本の映画でいろんな役を」

古谷若大将シリーズクレージーキャッツの映画にも出てます」

佐藤「クレージー1作目の『ニッポン無責任時代』(1962)の「ハイ それまでョ」を唄う宴会のシーンで若い社員として前列2番目にすわっていますね。『無責任遊侠伝』(1964)でも若い社員でしたね」

古谷「社長シリーズにもよくいましたね。黒澤(黒澤明)組の雰囲気で揉まれたのは貴重で、お金払っても出られないような」

佐藤「あの黒澤組でも『天国と地獄』(1963)では敏さんがいろんな役で大活躍。捜査会議の若い捜査員とか」

古谷「黒澤監督はすみずみまで見ますから「そこ、はけ」って。画面の真ん中にいても、あのうるさい黒澤監督に「お前、はけろ」とは言われませんでした。」

佐藤東宝は1964年に体制が変わって予算が削減されて、俳優の数やセットのスケール感がトーンダウンしてくる」

古谷「俳優の専属契約をなくしていこうということになっていったんですね。今度はテレビ(への進出)を見据えていく。だから本編(映画)に金を使う必要はないと。ぼくらにとっては死活問題です」(つづく