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今野勉 × 中堀正夫 トークショー “実相寺昭雄 Day&Night” レポート(1)

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 テレビ草創期からさまざまなドラマ・ドキュメンタリーを演出し、長野オリンピックのプロデューサーを担当したことでも知られる今野勉。最近は『宮澤賢治の真実』(新潮文庫)が圧倒的な調査に基づく素晴らしさだった。

 その今野氏と中堀正夫カメラマンが、故・実相寺昭雄監督について語る “実相寺昭雄 Day&Night” が2月に高円寺にて行われた。トークの前に『おかあさん』(1959〜1967)の実相寺演出による「あなたを呼ぶ声」(1962)と「生きる」(1962)も上映された。聞き手は高橋巖監督が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

今野勉氏との出会い】

 今野氏と実相寺はTBSに同期入社した。

 

今野「昭和34年にTBSに入って、全部で40人以上いたんですが、そのうちの3分の2が演出部志望だったということで、6人が入りました。大学時代に映画サークルに入っていたとか演劇やってたとかから選ばれたんですが、ぼくだけ専攻が労働社会学で演出とは関係なくて(笑)。報道をやりたかったんですが、最初の3日くらい、いろんな職場に見学に行くんですね。報道部に行ってみたら、カメラマンの撮ってきたフィルムにコメントを書くだけが記者の仕事で。ぼくは新聞記者のイメージだったんで、仙台の東北大学にいたんでテレビをほとんど見たことがなかったんですね。それで演出部に応募しました。

 前年に岡本愛彦さんの『私は貝になりたい』(1958)が芸術祭の大賞をとったんですけど(主人公が)戦後に床屋さんだったのが突然処刑される。テレビでもドラマがやれるんだってのが、映画志望の学生に広まって。演出部の2人くらいが既に学生時代に映画会社でアルバイトしてたんですが、そのときに映画界は史上最大の観客を集めた年で儲かってるはずなのに、撮影所へ行ってみたら暖房設備も冷房設備もなくて、機材がものすごく古かったそうです。テレビは機械が生命ですから冷してなきゃいけなくて、おかげで人間にもいい環境(笑)。機材もすごく新しかった。映画の技術のほうが発達してたんじゃないかと思われるでしょうけど、作曲家は映画館で音楽を聴くと、これがおれの作曲した音かっていうくらいひどい音だって。フィルムにネガで入ってますから。テレビだと電磁波ですから、電気で録音して再生するからいい音。将来はテレビだなって思う人は、映画でなくテレビに来たんですね。

 でも実相寺に訊くと、彼は最初から映画監督になるつもりでテレビに来たと。彼は早稲田の夜間の第二文学部で、引き揚げで貧しかったんで昼間は外務省で働いて、夜は大学に行ってた。映画会社を受けようとしたら、夜間部は受験資格がなかったらしいですね。それで演出部でぼくといっしょになったんですけど、6人の中でいちばん若いんだけど、才能と人づき合いのうまさは頭抜けていて、ドラマデビューがいちばん先なんですね。そのころ『おかあさん』の枠でオリジナル30分でつくるというのがデビューの条件。「あなたを呼ぶ声」を自分で企画して、大島渚にシナリオを頼んだ。ぼくは専攻が労働社会学だから(笑)何で演出に回されたか判らないですね。1年くらいで当時のテレビの技術を覚えて、ぼくは(同期6人の中で)いちばん最後にデビューしました。『おかあさん』じゃなくて “純愛シリーズ” 。

 その後で、実相寺はどんどんつくっていったんですね。本当は映画監督になりたいなんてわれわれにも知らせずに、おれたちはテレビをつくるぞなんて論文を書いたりして、あれは真っ赤な嘘だったんですが(笑)。自分が映画監督になるためにどう振舞うかを考えていて、これがやりたいって人生もあるんだなってぼくは彼に教えられたんですけど。ただ実相寺の演出は目を見張るものでした」

 

【『おかあさん』の達成(1)】

今野「「あなたを呼ぶ声」の台本はそのまま雑誌に載ってます。(いま残っている映像は)キネコって言って、テレビ画面をフィルムカメラで撮ったもの。だから暗闇は暗すぎて見えないし、明るいところはハレーションで見えないんですが。彼は画面を撮っておくというキネレコーディングを、自分が辞めるまでの全作品でやってるんですね。生放送なのに何で残ってるのって思ったんですが(後で)地方局で流すために当時キネコで残すということがあったんですね。『おかあさん』は全国一律放送だから残す必要もないのに、彼はニセ伝票を書いてキネコを残した。何十枚も(笑)。ばれなかったのか、ごましかしたのか判らないですけど、その手で全作品を。

 自分には映画監督=作家になる、作家には作品の歴史が必要であると。22~23歳のときから、何をつくってきたかを残しておこうという意識が強かったんですね。律儀で、台本でも何でもとっておく(笑)。

(台本の「駅前」「場外馬券屋」「街頭テレビ」などをカット)彼はテレビドラマのシステムや技術をもちろん熟知してて、このト書きは映画のト書きですね。いろいろなものがバラバラに出てきて、映画なら外行って撮って編集できるんですが、スタジオカメラはでかくて上下があまり動かない。フィルムなら自在にどの角度からも撮れるのと違うし、画質も違う。しかも生放送で、テレビカメラでは撮れない。(産婦人科の暗い室内から外に出てくるシーン)ワンカットでやってますね。街だってことを判らせながら、ヒロインの池内淳子をアップで、妊娠してるって告げられた表情をフォローしてる。1分くらいずっとフォローして、しかも外ロケじゃない。どうやって撮ったんだろうと思った」(つづく

 

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