私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

遠藤利男 × 今野勉 × 滝田栄 トークショー “岩間芳樹ドラマの魅力を語る” レポート・『天からもらった場所で』『天皇の世紀』(2)

【『天からもらった場所で』と初期作品 (2)】

遠藤「岩間さんが松山善三といっしょにやっていらして芸術祭賞を取った『オロロンの島』(1961)というのを見て、名古屋とか地方に住んでいる人間たちに心を寄せて作品をつくる人だなっていうことで岩間さんに話を持って行った。

 きょう見ていただいた『天からもらった場所で』(1963)の前に『砂の上の青春』(1963)という、当時活気を帯びていた浜松のホンダの工場の職工さんと没落していく織物工場の女工さんの休日。恋とまでは行かないんですが、そうした作品をつくりました。ホンダの工場や織物工場に(取材に)行ったりしましたけど、産業の大転換期ですね。炭鉱が閉山を余儀なくされて、オーミケンシをはじめとする絹織物の工場は大閉鎖になってる。ニューリベラルに転換する中で、人びとの生活も変わり、苦しみも変わっていくということをどう捉えるか。政党も組織も分裂が起きて、演劇においては新劇が隆盛を誇っていたけれども小劇場運動が起きてさまざまな展開をしていく中でのひとコマですね。

 『天からもらった場所で』で2階に閉じこもる少年少女は日本の各地から就職してきたんだから、現地の方言を話せる子どもたちを選んで。名古屋には優秀な児童劇団があったんですが、あの中で放送劇団に入ってる子はひとりです。福島の人は岩間さんが高校演劇に出ていた子でいいのがいるからって。各地の本物の方言が出てくるのは異文化の交流ですね。交流がどんなスパークをして何に至るのかっていう実験をやってみようと。岩間さんは細かく気を遣ってホンをつくってくれましたね。

 演劇にも映画にもないものをつくりたいと考えていました。ただ『天から』は演劇的で、2階のひと部屋と1階の部屋がワンカメラでつながってくわけです。少年たちの会話だけでドラマを進めていく。“天からもらった場所”に限定して何ができるかという表現の仕方。多分、岩間さん(のアイディア)です。曲は誰の歌だったか覚えてないですね。でもちゃんとした合唱になってるんで(オリジナル曲ではなく)既にあったものではないかな。録音に立ち会って苦労したという覚えはないですね。最後は連帯を表現するようなシーンになる。音楽を使って飛ぶ。この前にNHKの創作劇場でもミュージカルをつくってるんですが、このドラマでもやってみたかった。音楽によって、前の作品で徹底的に否定した連帯を復活させてみたい。見直してみてやってよかったなと思っています。

 私は東京に帰った後で、岩間さんと歌入りドラマをふたつつくっています。ひとつは倍賞千恵子主演の『ふたりの休日』(1965)。『砂の上の青春』に似てるんですが、歌は岩間さんの作詞です。その次は吉永小百合主演の『はだしの太陽』(1967)で、これも岩間さんの作詞で中村八大の作曲。ミュージカルっていうより歌入りドラマだったと思います」

【ドキュメンタリードラマの挑戦 (1)】

今野「岩間さんとの出会いは『天皇の世紀』(1973)で、大佛次郎さんの幕末から明治にかけての青春群像のノンフィクションを全26回にしようという。原作10巻のうち5巻はドラマでやったんですが、大佛さんから後半はドキュメンタリーでやってほしいという要望があったみたいで。それでぼくは26回のうち8本をやりました。最初にまず構成者を決めなきゃいけないんで、テレビ局側が岩間さんと本田英郎さんのふたりを指名して、ぼくが入ったときには決まってて。

 ぼくは歴史ドキュメンタリーをどうやってつくるのか全然判らなくて。後半の第1回は福井の夜がテーマで、坂本龍馬福井藩幕藩体制を壊そうとしている三岡八郎横井小楠と3人で酒飲んで日本はどうするか話し合うのをやってくれと。レポーターは伊丹十三さんで、ふたりでとりあえず福井へ行って3人で飲んだ家のあったところに行ってみたら、何もなくて国道が走ってる。長い時間が経ってるんだと。その場に行って伊丹さんやぼくがどう感じたか、どう思ったかのドキュメンタリーっていうか。写すものが何も残ってないんだから。証人もいない。現場に行ったときの感じをドキュメンタリーにしようと、伊丹さんとふたりで話し合って。そうすると構成作家とのつき合いがものすごく難しくなるわけ。構成作家は、原作は読んでいても現場には行ってない。だから構成台本が原作のダイジェストになっちゃう。読んでダイジェストだと思ったんで、第1回から構成台本を一切無視したんですよ(笑)。本田さんと岩間さんとで交互に構成台本が出てくるんだけど無視してたら、でき上がったものを見て判ったんですね。自分たちの書くものとまるで違う。現場に行った感じのドキュメンタリーというのは、それはそれで面白いし、いままでにない方法だから。何も言わないうちから岩間さんたちは、家老は誰でどこそこに何があってという資料を細かく書いてきてくれるようになって、構成作家であるよりも資料提供者に徹するようになったんですよ。つき合いの始まりとしては異例というか、こっちとしては申しわけないような。でも現場で体感したものをドキュメンタリーにするというのに最後までつき合ってくれて。

 例えば福井の夜に3人が集まった場所に行ったら国道だったと。夜もトラックが走ってて。ぼくは考えて、俳優さん3人に来てもらって、髷をつけて。トラックがヘッドライトつけてがんがん走ってる国道に座布団を置いて、3人をすわらせたんですね。そんなことやって何になるんだと言われるとそうだけど、そういうのを積み重ねていくと、100年の時間を生々しく感じる。いかに感じさせるかがドキュメンタリーの核心で、かつてこんなことがあっただけで済ませないためにとんでもないことをいっぱいやりました。新しい番組ということで受け入れられて、岩間さんも認めて」(つづく