【高校時代の想い出 (2)】
金子「映画を見るのは好きだったんですよね」
宮崎「高校2年から。三鷹で映画を見たっていうと「三鷹オスカーですか」ってよく言われるんだけどそのころはまだ三鷹東映。三鷹文化って名画座もあって、そこでよく日本映画の3本立てを。半分は洋ピン、洋画のピンク映画でしたけど。あんまり行ったことないですか」
金子「行きました。ポルノは見てなかったな。ロマンポルノを見たのは大学の最終学年ぐらい。高校のときから見てたんですか」
宮崎「18前にもう見てました(一同笑)」
金子「『ヘンリー・ミラーの性生活 クリシーの静かな日々』(1970)を吉祥寺で見たのが18禁を見た最初ですね。
高校のときに政治集会に行って、演説で深作欣二監督が自分でお金を集めて『軍旗はためく下に』(1972)を自主制作したって聞いたんですね。深作欣二の名前を覚えて、『仁義なき戦い』(1973)を三鷹東映で見たのが高校1年か2年か。すごい衝撃で、深作監督をずっと尊敬しています。高校のときに見た衝撃はありますか」
宮崎「『ウエスト・サイド物語』(1961)をリバイバルで見に行こうって同級生の女の子にものすごく言われて。昔は(入れ替えがなくて)ずっとすわっていられたんで、朝いちばんから3回ずっと見た。大きなインパクトで、映画ってこんなに面白いんだと。スピルバーグの新作(『ウエスト・サイド・ストーリー』〈2021〉)も、これが終わったらすぐ行こうと思うんだけど」
金子「どこで見たんですか」
宮崎「日比谷劇場かな」
金子「日比谷のあたりで『怒りを胸に振り返れ』(1970)を見に行ったら、それよりも短篇で『ウエスト・サイド物語』をはじめいくつかのミュージカルの紹介があって、すごく強烈で。リバイバルの宣伝だったのかもしれない」
宮崎「いちばん好きな映画って訊かれると高校のときの『ウエスト・サイド物語』」
【大学時代の想い出】
宮崎「山本薩夫の『金環蝕』(1975)とかも書いてたよね。ぼくが読者として「キネマ旬報」を見ていると金子はもう批評を書いてて、あの生徒会長がすげえなあと」
金子「山本薩夫監督のことも尊敬してまして、大学のときに助監督として現場に参加したいって、うちの父親と知り合いだった橘祐典さんを介して言ったんですけど。ちょっと参加したいぐらいで紹介はできないと。そうですよね(笑)。
何とか現場に行きたいって気持ちはあったわけですね。大学は東京学芸大の教員養成課程の国語学科で、映画に行きたいけども行けない可能性も高いから、ダメだった場合は教師にと。現役で国立にってプレッシャーがあったんですね。学費が私立と全然違う。私立に行った場合、学費を賄うためにバイトばっかりになっちゃうということで学芸大に進学しました。他にいろんな理由がありましたけど」
宮崎「大学に入ってからも撮ってたよね。ぼくは武蔵野美大なんで、金子監督に呼ばれてタイトルバックをやってくれないかということで、学芸大の映研を訪ねて行って文字を書いて」
金子「『プリズムタワー』って映画です」
宮崎「いまはタイトルを光学的に入れられるけど、8ミリ映画では直に撮影しないといけない。
32のときに自主映画『そうなのかもしれない』をつくって、上映しなくちゃ映画じゃないと思って池袋で3日間だけ上映したんですけど、応援上映ということで金子監督の作品を貸してもらって。ぼくのは40分しかなくて興行的に足りないんで、金子監督に相談して。困ったときには金子監督に頼むという(笑)」
金子「『貝の季節』という五月病の女の子の話で、大学2年で撮りました。五月病になっちゃって昔の高校時代のことを思い出す。高校の場面は三鷹高校に撮りに行きました」
宮崎「カメラが据えてあって、女の子が階段を下りてくるとハイスピードでスカートの部分を追いかけていく。高校のときも、こんなシーンを撮ってたなあと。その後のロマンポルノにつながる(笑)」
金子「いま思い返すと、女子を撮るのと男子を撮るのとでは気持ちが全然違いました(笑)」
宮崎「学芸大のときに押井守監督と先輩後輩で、それもうらやましい」
金子「映研に行ったら、部室の鍵が必ず閉まってる。自治会の人に訊くと押井さんという人が鍵を持ってる、連絡してやると。待ってたら押井さんが来て「この映研にはおれともうひとりしかいない」と。大学のそばの喫茶店に行ったら、そのもうひとりの先輩が現れて「よう押井。ブニュエル見たぜ」。ルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972)のことなんですが「ブニュエル見たぜ」って言い方が…。これが映画研究会か(一同笑)。押井さんとは延々と映画の話をして、押井さんは5年生でぼくは1年生。『貝の季節』も押井さんが撮影協力でタイトルに名前が入ってます」
宮崎「『花束みたいな恋をした』(2021)に伝説の監督として出てきますね。よく使ったな(笑)」
金子「サブカルチャーのシンボルみたいな。はまってた」
【日活での若き日 (1)】
金子監督は日活撮影所に就職。宮崎氏はテレビ番組やCMの演出を手がけていた。
宮崎「就職する段階で映写機を持ってって試験を受けたと」
金子「唯一の自慢ですけど日活の助監督試験で300人中2人が受かった。学科は8番で、目立たなきゃいけないということで8ミリ映写機を三鷹の自宅から試験会場の調布の撮影所に持って行って。映写機を持って深大寺の坂を下りながら。自分の作品を映写しようとしたら、明るくて映らない。その熱意がよかったということで、一般映画デビュー作『みんなあげちゃう』(1985)のプロデューサーの結城(結城良熙)さんにも圧倒的に目立ってたと後で言われました」(つづく)