明大前駅で終電に乗り遅れたことから出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)。小説やマンガ、映画の話で意気投合したふたりはつき合って同棲するが、やがて気持ちがすれ違っていく。
『花束みたいな恋をした』(2021)は一見軽いタッチに思わせながら、普通の男女の出会いと別れを豊富なディテールを駆使してリアルかつシビアに描いた秀作。テレビ『カルテット』(2017)などの坂元裕二脚本 × 土井裕泰監督が手がけている。土井監督は他にテレビ『青い鳥』(1997)や映画『罪の声』(2021)などでも知られる。
11月に「第31回映画祭TAMA CINEMA FORUM」内で『花束』が上映され、土井監督のトークショーもあった。聞き手は映画評論家の那須千里氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
坂元さんと映画の企画をやるというときに、20代の話と最後に別れる話をやりたいというのは脚本を書く前から言われたことで。時間というのは平等に残酷に流れていて、変わらない人というのはいない。自分も変わって、人との関係も変わる。もとと全く同じような形には戻らないのだというのは、坂元さんと『カルテット』という作品をやったときから、共通のテーマとしてあったことですね。いまは恋愛が成就して終わる作品が多いですね。だから新鮮に映ったのではないかと思います。
最初は菅田くんと有村さんだと思って見始めるけど、いつのまにか麦と絹を見ているような感覚、友だちの友だちの話を聴いているような気分になったらいいなと。
きょうは(劇中と同様に)明大前で乗り換えてきたんですけど(笑)そういうことをしたくなる気分で。京王線に乗ってるとどっかに麦や絹のような若者たちがいるような気がする。それがこの映画のよさかなと思いますね。
ぼくは世田谷に住んでて近いですが、調布は日活や角川大映の撮影所があってそもそも映画になじみの深い場所です。長くこの仕事をやってますが(調布近辺に)ロケに来ることは多いです。坂元さんが書いてきた台本には、最終的にはなくなったんですがつき合う前に『耳をすませば』(1995)の聖地めぐりをしているくだりがあって、ふたりが聖蹟桜ヶ丘に来ています(笑)。彼らがいそうな気のする場所ですね。
【演出について】
日記のような脚本で大事件はない。主人公たちが大きな病を抱えているとか記憶喪失であるとか、タイムスリップしてしまうとか、恋愛映画は枷をつくるんですがそれがない。淡々と若者たちの日々を積み重ねて、その中にうねりが生まれていくという台本でした。それを大事に撮っていって、ぼくが作劇上の大きな仕掛けをするというより、ふたりが来て演じて帰っていく(ことを演出する)のを積み重ねると心がけていました。
前半は特に歩いてるシーンが多いんですね。終電を逃して調布まで歩いて帰るとか、缶ビールを飲みながら歩いていく中で生まれてくる気分、狭い部屋の中での息づかいとかが感じられるようにする。なんかこう、カメラがふたりに寄り添っているような感じ。でも3人目の登場人物がいるのではなく、私たちがのぞいていていっしょに歩いているような気分。演出の存在を感じさせないようにするというのを心がけましたね。美術や衣装とかも含めてですけど。
編集より現場で起きたことが大事かなと。ただひとつひとつの場面に起承転結を持たせないで、起承だけで結を見せないでどんどん行ってしまうようにする。結は大きな中に見つけられないかなといつも考えてますね。今回も起があって転があって、もう次のシーンになっちゃう。それがリアリティじゃないかな。ぼくたちが毎日誰かと会う中でそんなに起承転結はないわけであって、細切れに何かが急に始まったり急に終わったりする。それを積み重ねて生きているというか。今回はそんな刹那な感じがあっていいかなと意識してたかもしれませんね。
【時間の流れ (1)】
ふたりは、その日その日を積み重ねて(結末に)たどり着くというのを、頭でなく体で判っていた感じがありました。
時間が流れると言えば名画座の下高井戸シネマや早稲田松竹の話が(劇中に)出てきますが、夏に下高井戸シネマや早稲田松竹で上映していただいて早稲田松竹の最終日に見に行ったんですが、時が流れてるなとすごく感じて…。(つづく)