私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

宮崎祐治 × 金子修介 トークショー(調布映画地図展)レポート(3)

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【日活での若き日 (2)】

宮崎「日活に入ってからも、深大寺の坂を自転車で通ってた?」

金子「渋谷区初台生まれですが、小学校5年に三鷹に引っ越してきてからは三多摩の文化圏に。6年のときは初台にバスと電車で通ってたんですけど、それからは三鷹高校も小金井の学芸大にも自転車で。日活も調布なんで深大寺の坂を自転車で上り下りすると」

宮崎「きつい坂を自転車で通うビジュアルが金子らしい。イメージですけど哀愁もある(笑)。

 CMの演出やってたんで調布駅から東宝の撮影所までバスで行ったんだけど、清算するときにバス代いくらって書いたらプロデューサーに「ディレクターなんだから調布から成城までタクシーで来い」と言われて。演出のことを考えるのはバスがちょうどいいスピードだったんだけど、CM業界はバスよりタクシーという雰囲気で。それが自転車で通うと(一同笑)」

金子「『ビー・バップ・ハイスクール』(1985)を撮られて早くに亡くなった先輩の那須博之さんが、深作欣二の次にぼくが影響を与えてもらった人で。那須さんにバイクの乗り方を教わり、バイクも譲ってくれるかと思ったけど中古のを5万で買い(一同笑)それからバイクで通いました。那須さんは吉祥寺に住んでたんで、帰りにはいっしょに坂をバイクで駆け上がって、那須さんは「じゃあな!」って吉祥寺の方向に消えていくという。思い出すと泣けてくる。

 高校と大学のときに自分は監督だと思っていたから、日活に入って助監督になると降格した気分なんですよ(一同笑)。最初についたのが根岸吉太郎監督のデビュー作で、忘れ物をして助監督としては無能で、こういう助監督がいたら困るなと」

 

 金子監督は『宇能鴻一郎の濡れて打つ』(1984)によりデビュー。

 

宮崎「金子監督のロマンポルノでのデビュー作を、公開の日に新宿日活に見に行ったんですよ。女優や監督挨拶が上映の前にあって、登壇していまと同じように訥々と「この映画のテーマは」とか言うんですよ。『みんなあげちゃう』とか『いたずらロリータ 後ろからバージン』(1986)とかでも同じで、難しい話をしちゃってるな(笑)。女優さんはみんな「何々ですぅ」みたいな感じなのに、金子監督は「ここにはこういう意味があります」。高校時代の彼と変わってない」

金子「(『濡れて打つ』が)企画としてスタートしたときは、原作が「東京スポーツ」の連載でまだ13回ぐらいしかない。高校のテニス部員がエレベーターでおじさんに変なことされてるってのが13回までつづいてて、ストーリーがない。高校のテニス部員なら『エースをねらえ!』だということでそれをベースにしたコメディーポルノにしました。いまは『エースをねらえ!』のパロディーと受け取られるんですけど、当時はそうするしかなかった。笑えるロマンポルノになってると思いますけど、そういうことを真面目に話すと暗くなってくる(一同笑)」

宮崎「初期のコメディーでもテンポが独特ですね」

金子「笑いのロマンポルノ」

宮崎「編集のことを考えて撮られてるのかな」

【マンガについて (1)】

金子「世代的な共通点としてはマンガがあるんじゃないか。手塚治虫さん、石ノ森章太郎さんたちがつくったマンガ文化。ぼく自身もマンガ描いてて「COM」に投稿しても相手にされない」

宮崎「「COM」は高いレベルというか、ぼくなんかも高校生で出しても全く何も引っかからない。高校2年に『あしたのジョー』(講談社)が死ぬまでは読んでて、死んでからはマンガは一切読まなくなって、映画にのめり込んでいった。金子監督は、高校のときに手塚治虫の『火の鳥』(角川文庫)はおれが監督するって宣言してた」

金子「宮崎くんの絵は少年マンガのイメージで動きがある。和田誠さんのイラストとは違う。和田さんの絵に動きがないわけじゃないけどスチール画のイメージで、宮崎くんのは動きがある感じがする。ストーリーマンガの影響じゃないかと。『あしたのジョー』のことはきょう初めて知ったんだけど、ぼくは劇画とか『巨人の星』が厭だった。SF冒険マンガが好きで、劇画には反撥があって。アンチ巨人になって(一同笑)『仁義なき戦い』(1973)もあったんで広島ファンに」

宮崎「ぼくの通ってた調布の小学校の裏に水木しげるの家があって、3枚も色紙をもらってた。奥さんの布枝(武良布枝)さんがすごく親切で「遊びに来なさい」「いま武良はいないけど上がっていいわよ」みたいに。船のミニチュアが飾ってあって、一生懸命見たり。

 ぼくはマンガをやめちゃって、いまは全く判らなくて。『デスノート』(2006)も知らなかったけど、金子がつくったから見に行ったり」

金子水木しげるさんとはうちの母が武蔵野美術学校と同窓生で、片手のぶらさんと言われてたと。もしかしたらだけど、うちの母は水木さんに好かれていた節が(一同笑)。

 ぼくのマンガは切り絵作家の母からするとデッサンがなってないと。8ミリカメラなら言われなくて済む。マンガから8ミリ映画に行ったひとつのきっかけかも(笑)」(つづく