若いやくざ(佐藤蛾次郎、大野しげひさ、大橋壮多)が組織に取り立てられて奮闘するが、幹部たちの非情な裏切りに遭ってしまうのだった。
松竹映画『とめてくれるなおっ母さん』(1969)は、コメディタッチに見えてハードなドラマが描かれる異色作で、シュールな演出が挟み込まれたりデモなどベトナム戦争真っ只中の世相がインサートされたりする。脚本・監督は、大ヒットした大河ドラマ『武田信玄』(1988)やユニークな『オアシスを求めて』(1985)などのシナリオを後年に手がける田向正健。
7月に阿佐ヶ谷で松竹のレア映画特集が行われ、『とめてくれるなおっ母さん』のリバイバル上映後に主演で坂東忠義役・佐藤蛾次郎氏と娯楽映画研究家の佐藤利明氏のトークショーがあった(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
「はるかかなた北海道から坂東忠義さんにおいでいただきました」という利明氏の呼びかけで蛾次郎氏が登場。
今回の松竹特集のきっかけは、蛾次郎氏から利明氏に電話がかかってきて『とめてくれるな』を見たいと言われたことだという。
利明「(ふたりで)映画館でトークするのは、もうかれこれ20年くらいやっています」
蛾次郎「そうだっけね」
利明「ごらんになるのはどれくらいぶりですか」
蛾次郎「当時以来だな」
利明「1本の映画でこれだけ佐藤蛾次郎さんが見られるのは…」
蛾次郎「そうですね、この作品だけ。よく頑張ってますね(笑)」
利明「いかに松竹が蛾次郎さんに期待を寄せていたか」
蛾次郎「そんなことないんじゃない?(笑)」
利明「主演作ですから。この前年が山田洋次監督の『吹けば飛ぶよな男だが』(1968)ですね。それまでは大阪の児童劇団にいらした」
【デビューと新人時代】
蛾次郎「小学校3年でABC(朝日放送)の児童劇団に入った。おふくろが応募したらしくてこの世界に入った。ラジオですから早口言葉の練習とかして。それから普通の大阪の劇団にもいたね。(テレビ『神州天馬侠』〈1961〉で)蛾次郎という役をやって、監督の倉橋(倉橋良介)さんにいい名前だからもらえって言われて、つけた名前(芸名)が蛾次郎。それまでは佐藤忠和という。忠和じゃ売れないということで蛾次郎に。つけたのは(原作の)吉川英治ですから(笑)」
利明「大阪で活動されていた?」
蛾次郎「そう、大阪にいたんですね」
利明「今村昌平監督の『エロ事師たち 人類学入門』(1966)に出られています。劇団に話が来たんですか?」
蛾次郎「そうですね。変なのがいるということで使ってくれた」
利明「『エロ事師たち』がなければ山田洋次監督の『吹けば飛ぶよな男だが』もなかった気がします。小沢昭一さんもブルーフィルムも出てくるし。山田さんが蛾次郎さんを気にしたのも」
蛾次郎「そうなのかな。わかんないけど」
利明「1968年の春に山田監督と面接されてますね」
蛾次郎「大阪の事務所に東京から偉い監督が来るってね。山田洋次なんて知らないって答えた(一同笑)。知らない人を知ってるとは言えないから。行く気がなくて2時間近く遅れて、謝りもせず。事務所の社長は「この監督が来るときは遅れちゃいけないよ」。それで「はい」と言って遅れた。(山田監督は)何故か待ってくれてた。運命の出会いなのかね(笑)」
利明「どんな役がやりたいんだと訊かれたと」
蛾次郎「不良!と(答えた)。笑ってましたね。遅れて来るわ、何言ってるか判らないわ。おれは監督とか、上の人にぺこぺこするのも好きじゃない」
蛾次郎氏は山田監督の『男はつらいよ』シリーズに1本を除いて出演しつづけた。
【『とめてくれるなおっ母さん』の想い出(1)】
利明「『吹けば飛ぶよな』のガスと『男はつらいよ』(1969)の源ちゃんとの間に『とめてくれるな』の忠義がいる。蛾次郎さんはアウトロー担当なんですね。
蛾次郎さんを見た山田さんは『吹けば飛ぶよな』に活かしたけど、それをまた観察してたのが田向さん」(つづく)