2011年3月。大地震に襲われた福島の原子力発電所では吉田昌郎所長(渡辺謙)や師長(佐藤浩市)らが暴走する原子炉に立ち向かう。だが電力会社本店の無能な上層部(篠井英介)や首相(佐野史郎)などが所長たちの足を引っ張るのだった。
東日本大震災による原発事故を映画化した『Fukushima 50』(2020)。ネット上ではどちらかと言えば好評を博している本作だが、筆者は録画で見て暗澹たる気分になった。
監督の若松節朗はインタビューで述べる。
「(佐藤浩市の演じる師長が)「俺たちが逃げたら、ここを誰が守るんだ」と答えますが、自己犠牲というか、人のために自分が死ねるかというかね。地元愛とか日本人が持っている美学みたいなものはドラマにしたいと思ったんです。時系列に沿った事故の経過は嘘のないようにやりましたが、あくまでエンタテインメントとして観られるように、ドラマの部分は少しだけ、フィクションを入れました」(「キネマ旬報」2020年3月下旬号)
前半の「ベント」のシークエンスはリアルで、確かに真摯に「時系列に沿った事故の経過」を描いているように思われる。だが…。
「僕はエンタテインメント映画を作ったので、原発推進映画、反原発映画を作ったわけではない。ただ観客の方にわかってほしいのは、あの事故の時に海外の人からFukushima 50と呼ばれた、こんな人たちがいたんですよ。原発の中ではこんなことが起きていたんですよ、知らなかったでしょと。それがわかってもらえればいいんです。その中に極限状況で格闘している男たちがいた」(同上)
若松の発言を字義通りに受け取れば、つくり手たちが描きたいのは「極限状況」の人間像だという。
「エンタテインメントとして観られるように」人間ドラマに「少しだけ、フィクションを」挿入したそうだけれども、筆者の見たところ、ドラマ部分は浅薄であった。
前半の時点で既に渡辺謙の所長が何かと怒鳴り散らす威圧的な人物でおそらく制作者が意図するほどかっこよくないという問題が生じており、前途に暗雲が立ちこめる。
不安は的中し、中盤では男性師長と娘(吉岡里帆)とが結婚をめぐって対立していたという陰影のかけらもない、過去に何千回やり古されたような愁嘆場が出てくるのだった。女性職員(安田成美)の口にする、いかにも頭で考え出されたような台詞にも閉口させられる。
「地元愛とか日本人が持っている美学みたいなもの」を体現しているはずの善玉ですらこのありさまであるゆえ、敵役の首相や電力会社上層部は当然ただ憎々しい(佐野史郎の演技は見ていて面白いが)。
「総理大臣は佐野史郎さんが演じていますが、冷静に見れば佐野さんと東電・本店で福島の吉田所長に指示を出す、篠井英介さんは憎まれ役です。でも僕は佐野さんも篠井さんも、悪く描いてはいません」(同上)
本作『Fukushima 50』は、娯楽映画であることを口実に歴史的事件を正邪やら愁嘆やらの定型に押し込めて矮小化してしまった。そして人物像の捉え方も極めて紋切り型である。一連の処理は原発事故という事態の複雑さを没却しているだけでなく、史実の捏造に荷担したことにもなる。
SNSを眺めると、大半の視聴者は首相や本店の上層部に対して「きっと実際にこんな感じだったんだろう」などという感想を吐露している。しかし筆者はその趨勢に異を唱えたい。
現実の首相や本店上層部が本作に描かれているごとく愚鈍だったと認めることは、現場で戦う所長や師長やその娘も映画のように平板な人物であると是認することにつながるからである。危機に尽力した作業員や家族が、あのように魅力のない者たちだとはあまり信じられない。
この演出家による往年のテレビ『それが答えだ!』(1997)はほのぼのした佳作で印象深く、『振り返れば奴がいる』(1993)や『お金がない!』(1994)、『やまとなでしこ』(2000)なども愉しめたのだが、娯楽作家としては秀でていても『Fukushima 50』においては無思想ぶりがマイナスの意味で露呈しているように思われる。