私の中の見えない炎

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押井守 × 石川浩司 トークショー(つげ義春「ねじ式」展)レポート(4)

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【つげ作品の解釈】

石川「細いところを自転車で行かなくちゃいけなくて、振り返るとおばさんと子どもがいてやっちゃう。リアルだけど、夢の中でしかありえない情景でもある」

押井「「ねじ式」がメタファーだとしたら、ここまで記憶に残らなかったと思う。メタファーに見えて実はメタファーじゃない。ねじを締めると左腕がしびれるって台詞に、当時の学生は左って言葉にみなこだわった。いまは何のことか判らないだろうけど。でもこの作品は支離滅裂で、そこにロジックを見つけようとする興味をそそるけど、ロジックはない。この作品だけは映画にならないと思う。やった人いるけど(一同笑)」

石川「昔たまってバンドやってて「さよなら人類」って曲だけヒットしたんですけど、ぼくが作詞しているわけでないですが、作詞した柳原(柳原幼一郎)って奴が深い意味はなく言葉の面白さでつくった歌詞だと思うんですが、深い解釈をする人がいて、世界滅亡のことを歌ってるんだとかこういう意味に置き換えられるとか。キリストだってキリスト教つくろうと思ってたわけじゃなく、善人だったのがその後の解釈で広まったんだから、解釈って怖いなと思いますね(笑)」

押井「深い意味があるように思わせるのが作品の力なんだよね。解釈をそそる作品はもれなく傑作で、人間の無意識に根拠を持ってる。作詞の彼もそうだと思う。無意識に頭の中のものを引用してるんですよ。ある組み合わせが成立した瞬間、ひとり立ちして解釈を呼び込んじゃう。裏目読みを仕掛けてる、というのとは違う。映画でも伏線張ってえさを撒いたりするけど、それとも違っていて。プリコラージュの力はバカにしたもんじゃなくて、ときにはロジックよりすごい力を持つ。何十年経っても読める。絵もすごいですけど、言葉もすごい。“ようやくわかりました” とか、妙な衝迫力がある」 

【つげ作品の夢 (1)】

石川「「ヨシボーの犯罪」はわざと下手な絵で描いてて、実は高度な技術で、下手な人がうまくやるより難しい。微妙に狂ったデッサンとかが響いて、こういう夢をぼくも見るなあとか。トラブルがあるのに温泉見つけて嬉しくなるとか(笑)。「必殺するめ固め」とか奥さんが寝取られてる横で自分も寝てるとか、「コマツ岬の生活」もテレビで見てたのに自分も入ってるとか。夢の世界をマンガで再現するというのは、描けそうでなかなかないんじゃないかな」

押井「夢って話にするとつまんないですよね」

石川「夢を見た人は、こんな夢見た!って熱弁するんだけど相当話がうまい人じゃない限りは、はあと言うしかない。見た人は体験してるけど、伝えるのは難しいですね」

押井「マンガって表現の力で、映画では無理だと思います。距離感があるから」

石川「映画って進んでいくけど、マンガは気に入ったコマで何十秒でも止まっていられるから、想像していく余地が生まれる。映画のほうがいろんな要素を盛り込めるように思えるけど、1枚の絵のほうが想像できる」

押井「あとマンガはテキストがあって、言葉がついてくる。映画の音声になっちゃうと、目に焼きつかないんですよ。夢を映画にしたいって欲望は普遍的にあって『アンダルシアの犬』(1929)とかもだけど、犬の目を使ったってことで許せない映画だけど(一同笑)とても退屈。結局、映画で夢の追体験をさせるなんて不可能ですよ。映画は致命的に距離感があって客観性の強い表現で、マンガは彼が言った通り何回も見られるし、ぼくに言わせると言葉とセットになってる。山岸涼子さんもぞっとするほど怖いけど、絵があって言葉があるから。映画は音声になって、別のものになっちゃう。

 路地に機関車が入ってくるとか、いまなら合成で映画でもできるけど、こんなこういう凄まじい感じにならないですよ。映画は客観的で、めちゃくちゃができない。映画の編集はロジカルで、でたらめに編集したら面白くなるかって言うとただ退屈なだけになっちゃう。でたらめに見えてもロジックがないと編集にならない。

 不条理はぼくらの時代なら、カミュの文学とか戯曲とか不条理劇があったけど、言葉として語られた不条理は誰もが納得する不条理なんですよ。それは不条理と言えるのか」

石川「不条理と言ってもフォーマットができて、パターン化したものについ陥る。不条理じゃなくなっちゃう」(つづく