私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

押井守 × 石川浩司 トークショー(つげ義春「ねじ式」展)レポート(3)

f:id:namerukarada:20200926220224j:plain

【つげ作品のエロティックさ】

石川「エロ本はスタジオで撮ったりしてつくりものの感じがあるけど、生活感があるというか。うちの親父とおふくろもこういうふうにというか。家の中にもエロスがある」

押井「ヌード写真がエロティシズムだとすれば、つげ作品は生のエロ。そういうのは日常性とからめないと、エロにならない。ヌード写真は綺麗な花を見ている感覚だけど。つげ作品のおばさんを見て興奮した少年もいるはずっていう。身障者とかハンディキャップのある人に対するよこしまなリビドーは、強烈ですよ」

石川「他のエロ雑誌でもそういうのないですよね」

押井貸本屋文化の濃密なもの。後ろ暗いエロスが、つげさんから終生離れないですね。強烈なリビドーがある人なのは間違いない。

 一方で、死に傾いてる世界もあるよね。荒れた海に海水浴に行くとか、かっこいいわよって。あれは強烈でしたね。死にかけている人を女の人が眺めている。ちょっとぞっとします。振幅の激しさというか、リビドーがある反面、死に傾いてる。エロティシズムの人で(作中の)ひなびた温泉とか見てると淡々とした人かなって思うけど、ぼくは全然違うと思う。ああいうところにいないと自分が壊れちゃうんじゃないかな。中身はリビドーとタナトスで荒れ狂ってるんじゃないか。夢だとリミッターが外れて、夢のシリーズはみんなエロいですね。それもねじくれてる。男だと経験してるけど、目が覚めると夢精してるというか、そういう感覚。つげさんにはいろんな側面があるけど、根っこはひとつ。振幅も同じところから出てるっていうか」

石川「ひなびたものが出てきてほのぼのしていいなって思うけど、突然リビドーが湧き上がる。どっちもほんとですよね。ほのぼのしてるもの嘘じゃないけど、激しいのもほんと」

押井「他人を語っているときは安定していたんですよ。「李さん一家」とか近所の変な人シリーズは、主人公が何もしない。自分は傷つかないし、すわりがいい作品。でもそれだけじゃなくて、ときどき激しいものが噴出する。つげさんは自分の無意識を飼いならそうとして頑張った人なんじゃないかっていう。

 暴力性も感じないですね。攻撃的な衝動には行かない」

石川「創作するとき、リミッターを外れる部分は(自分にも)ありますね。意味なく叫ぶとか。つげさんに影響されて、夢の中の連続性を書いた作品もありますし。つじつまが合っているけど、最初と最後では全然別の世界にいるというのを歌詞にしたこともありました。

 つげ作品は郷愁もあるけど、しみじみと言うよりなつかしさが殴りかかってくるようなものも多いですね」 

【つげ作品と引用】

押井「ぼくは自分の作品は引用だと思ってるんだけど、パクってると言えばそうだし、リスペクトとも面白がってるだけとも言える。あの回はやることなくなっちゃって、コンテ直し始めたら止まんなくなっちゃって。やることなくなったときに、ぼくの場合は引用する。『ニルスの不思議な旅』(1980)では『エイリアン』(1979)を引用してカット割りをそのままやったけど、誰も気づかなかった。『うる星やつら』(1982)ではスタッフ誰も判らなかったし、オンエアされて判る人がいた。銭湯にたどり着くまですることがなくて、結局汽車に乗ってた。見ながらではなくて記憶でやったんですよ。

  映画つくるってこと自体が引用なんですよ。自分のオリジナルってないですから。オリジナルと思ってる人はいるけど錯覚で、ヒッチコックとかゴダールとかの記憶でつくってるだけ。プロデューサーも気がつかなくて、オンエアされちゃったんですね。ぼくは他の作品でもやってると思う(一同笑)」

石川「つげ作品の中でも引用は多いですよね。「ねじ式」でも目医者がいっぱいあるところとかも台湾の写真を使ってるとか、鼓笛隊の少年とか。ラーメン屋で見た夢から発想したと言われてたけど、いろんな引用を散りばめていると」

押井「でも人間が夢を見ること自体が引用で、人間のやることなすことオリジナルなんてないですよ。逆に言えば個人なんてものがあるのか。自分という存在が過去・現在・未来の引用ですよ」

石川「いろいろ無意識に見たものや意識的に見たものの総合体として自分がいるっていうのは、ぼくも思います」

押井つげ義春と言えば「ねじ式」というふうになっちゃって、いろんな表現に影響を与えたけど、この作品がつげさんの中でダントツに完成度が高いということでもないと思う。こんなに脈絡のある夢は普通見ないから、断片的に夢を使ってるだろうけど。プリコラージュと言うか、いろんな表現の中で引用しやすい。「もっきり屋の少女」は引用しづらいけど、「ねじ式」はあらゆるカットが引用しやすいできる。もともとが引用だから。その人の最高傑作が代表作になるわけじゃなくて、どれだけ語られたか引用されたかで代表作が決まる。マンガ家でも映画監督でもそうで、ミュージシャンもそうかもしれない。

 「ねじ式」は夢の物語で、見事に枠組みにはまってるんですね。ぬかるみのおばさんに出会うとか引用できないでしょ。「ねじ式」の面白さはイメージと言葉がセットになってて、引用しやすい」(つづく