私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(2)

 「就労排除」対「自主制作」

 そうこうするうちに、東京撮影所にテレビ映画とCMをつくる制作所という部署ができて、東映労組の活動家全員がそこに配転されました。間もなくそこは別会社になります。組合活動家でもなかった僕もそこに入れられて、そこからさらに目黒のPR分室という、室長を入れてもたった7人の部署に追いやられました。出勤しなければならないけど、仕事は一切ないという状態に置かれたんです。組合も黙っていたわけじゃありません。時限ストライキ、抗議集会、デモ、いろんな抗議活動を続け、何年かそんな状態が続きます。

 そのうち、新労連のなかで組合民主化の運動が起り、新旧労組が共闘するようになります。1970年の暮になってやっと労使の合意が成立して、解雇された支部委員長が復職、僕も東映の仕事ができるようになりました。

 その後、組合は契約者と呼ばれた契約ベースで働く人たちの組織化を進めます。そうするとまた攻撃が始まりました。子会社がつくられ、仕事の持ち出し(外注)が拡大するのにあわせて、組合員の仕事がどんどん減らされていきました。ついに1976年には仕事はすべて持ち出しになり、撮影所には建物と組合員だけ残されました。目の前で外注先の人たちが仕事をするのを、組合員は指をくわえて見ていることしかできなくなります。

 会社は組合が耐えきれなくなって闘争を構えたら、それを口実に一挙に全員を解雇しようと狙っていたのでしょう。はじめはソフトボールなどをやって励ましあっていましたが、仕事のない飼殺しの状態がまる2年も続いたのです。

 組合は必死に打開策を考えました。当時、持ち出しでやっていた『Gメン.75』について、組合側から予算案を出して自前でつくらせろという議論を会社にぶつけました。その中に、残業手当は1本につき30時間まででいいという思い切った提案もありました。ときには月に100時間以上にもなる残業代を、1本の撮影につき30時間まででいいと言うのですから、組合員のあいだでも大変な議論がありました。 

 いろいろジグザグはありましたが、手を焼いた会社は組合員が出向して企画営業部をつくり、そこが仕事を見つけてきて、自分たちでやってみろということになりました。組合側も仕事が見つかるまでは、他の事業所への「スタッフ派遣」や他社への「人材貸し出し」も進んで受けることにしました。

 そしてついに東京12チャンネルから『ザ・スーパーガール』シリーズを受注して、自主制作が始まりました。組合員は大変な苦労をしましたが、出来上がった作品は好評で、僕もそこで次々仕事が出来るようになりました。そのあと、自主制作はフジテレビの日曜朝の子供番組に引き継がれましたが、それまで数パーセントしかなかった時間帯で、10パーセント台半ばを超える視聴率をかせぐようになり、12年も続きました。大企業の中で、組合が長年にわたって自主制作をやるというのは、おそらく前代未聞のことじゃないでしょうか。この実績の上に、1985年についに組合員全員の東京撮影所復帰を実現しました。20年ぶりのことです。

 そんな経験をしてきたものですから、戸塚(引用者註:戸塚秀夫)君の報告は実に興味深かったわけです。  

〇波乱の映画人生 たった2本の劇場映画

 僕は学生時代に映画『きけ、わだつみの声』の製作上映運動にかかわったことがあるんです。僕が大学に入ったのは1948年で、キャンパスは学生運動の花盛り、その中ですごい演説をしている学生がいて、先輩かと思っていたら戸塚君でした。その後共産党に入ったら、戸塚君が細胞のキャップでした。

 戦争の悲惨さを身近に体験している僕らの世代の学生運動は、あらゆる場面で反戦のメッセージを訴えていこうという運動でした。

 大学生協の出版部が戦没学生の手記を集め、『きけ、わだつみの声』を出したのもそのひとつです。この本は何版も版を重ねて大ベストセラーになりました。東映の前身の東横映画がそれに目をつけて、映画化を申し込んできました。会社の用意した脚本を、学生側の僕らが何度もあれこれ文句をつけて、製作者たちをうんざりさせましたが、結局、監視役として学生ふたりを撮影現場につけること、版権料20万円とフィルム1本を全学連に提供するということで、映画づくりが始まりました。

 丁度その頃(1950年)、コミンフォルムの批判というのがあって、共産党は所感派と国際派に分裂しましたが、国際派だった僕らは、所感派に対抗する反戦学生同盟づくりを始め、僕はできたばかりの『きけ、わだつみの声』のフィルムをかついで、九州の反戦学生同盟づくりのオルグに行きました。九州に向かう汽車の中で朝鮮戦争が始まったことを知りました。

 映画は大当たりしました。経営にガタが来ていた東横映画は息を吹き返し、いくつかの会社と合併して東映ができました。もともとこの会社は、マキノ光雄さんたち、満州から引き揚げてきた映画人たちがつくった会社です。マキノさんは「俺は右でも左でもない、大日本映画党や」などと言って、東宝争議でレッドパージされた今井正さんを引っ張ってきたり(『ひめゆりの塔』53年)、中国から帰還してきたばかりの内田吐夢さんに仕事を頼んだり(『血槍富士』55年)、当時吹き荒れていたレッドパージなど意に介しない根っからのカツドウヤだったようです。

 『わだつみ』や『ひめゆり』をつくっている会社なら、大いに力も発揮できるはずなどと意気込んで53年に東映を受けたら、見事落とされました。それでも諦め切れず、次の年にもう一度受けたのですが、会社が力を入れていた時代ものや娯楽もののことを聞かれても、見たことがないので何も答えられません。千恵蔵や歌右衛門錦之助のことも知らず、あきれられました。たまたま、マッカーサー・ラインのことを聞いた試験官がいて、それならこっちはお手のもの、滔々と演説をぶったら、みんな呆気にとられていました。その後、身体検査を受けに行ったら、常務のマキノさんから「おい、共産党、お前入れてやったからな」って大声で言われてびっくりしました。その頃の僕は、党のごたごたに嫌気がさして党員をやめていましたが…。

  以上「われらのインター」Vol.29より引用。(つづく) 

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