私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

井筒和幸 トークショー レポート・『犬死にせしもの』(1)

 ビルマインパール戦線から戻ってきた主人公(真田広之)は戦友(佐藤浩市)と遊郭で再会する。その他の一味(平田満、堀弘一)と海賊を結成した主人公は瀬戸内海を支配するやくざ(蟹江敬三)たちと対立し、壮絶な争いが始まる。

 西村望の小説(徳間文庫)を映画化した井筒和幸監督『犬死にせしもの』(1986)は、ディレクターズ・カンパニー初期の作品のひとつで荒削りだが意欲を感じさせる。70年代の映画の激しさとは異なり、80年的な明るい雰囲気もある。

 昨年10月のディレクターズ・カンパニー特集でリバイバル上映が行われ、井筒監督のトークもあった。聞き手は映画ジャーナリストの関口裕子氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

【ディレクターズ・カンパニー結成】

 公開当時も見たという人が手を挙げていた。

 

井筒「変人だね(一同笑)。みんな33~34歳の時代。ディレカン自体が全共闘みたいなもんだね。

 ぼくはもともとピンク映画でわけの判らないものつくるところから入ったけど、映画界をなんかぶち壊してやろうというか。学生時代の映画研究会では(学生映画で)心の表現をしていたけど、日本の映画界に対してはくだらないなと厭だった。アルドリッチドン・シーゲルやスコセッシやコッポラを見てるほうが面白い。先輩のつくったのでは『仁義なき戦い』(1973)だけですよ。深作(深作欣二)さんはわれわれのアイドル。だから何か壊してやるものをつくりたいと思ってピンク映画もどきを…。誰に頼まれたわけでもないのにね。

 高橋伴明さんに「井筒、ゴジ(長谷川和彦が集会を開くって言ってる。寄り合いがあるんで行こうよ」って。へえ、給料出るのって訊いた。1982年ぐらいでぼくは『みゆき』(1983)を撮る前、『ガキ帝国』(1981)と『ガキ帝国 悪たれ戦争』(1981)をつくった後で打ちひしがれてましたね。撮るものがなくなった。(企画が)ないと映画屋なんてただのプー太郎でしょ。ぷらっとしてて世の中がつまらない。もともとつまらないから映画監督になったんだけど。それでお声がかかって、行ったの。知らない人もいたけど、その中で相米相米慎二)は知ってたね。『翔んだカップル』(1980)を撮って偉そうにしてた(一同笑)。そんなころに伴明さんが入ろうよってことで全共闘みたいだなと思ったんですね。みんなで好きなように革命的な映画を撮ってやれと。メジャーの奴らをびっくりさせるようなもの。メジャーなんて信用してなかったからね。商売の映画をつくるために業界に入ったわけではないし」

【『犬死にせしもの』の企画 (1)】

井筒「西村さんの原作があって、それを西岡(西岡琢也)先生が「こんな原作あるよ。徳間から出てる。徳間ノベルスで1日で読める。おもろいで」と。さっそく読んで、アクションもあるし、海上戦ばっかり。大層金かかりそうで、どっかだますしかない(一同笑)。シナリオは西岡で、撮影前に予算がなくて勝手に切っちゃったりして後で怒られるんだけど。

 それでどこが乗ってくるかな、東映かな。すると東映で別のチームがこれを企画し始めてたの。まだ企画のき、ぐらいだったんですけど。それを壊そう! おれたちがやるんだ、東映にやらせたらダメだ。ぼくらが息巻いてたら、それに関係なく東映のほうでは自然消滅したらしい。東映にはものが判る人がおそらくいなかったんだね。そしたら大映の人と知り合うんだな。大映は金も出そうにないし、どうしようかなと。そうこうしてるうちにディレカンも立ち上がって、どっちが先だったかな」

 

 桝井省志プロデューサーが客席から発言した。

 

桝井「ディレカンが立ち上がって、ディレカンの井筒和幸ということで大映に話を持って行ったんです」

井筒「そういうことか。タッチの差だったと思うな。1982年ぐらい。そんなころに『みゆき』を撮らないかって話が来て、ぼくはノイローゼになりながら撮った。これもその時期ですね。東京女子医大に通って、錠剤を飲みながらやって、終わったら治った(一同笑)。プレッシャーがかかってストレスで頭おかしくなって。『みゆき』の間は企画がストップして、終わってから大映に話をしに行ったと。アミューズ桑田佳祐を出そうという話で進みかけたんだよね」

桝井「井筒さんがプロデューサーで大森(大森一樹)さんが監督の予定でした」(つづく