私の中の見えない炎

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佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(3)

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 助監督時代

 そうやって入った撮影現場はひどい労働条件でした。月に200時間の残業もザラでした。労働組合はあったのですが、御用組合でした。東急で労務担当をやっていた大川博が社長で、組合対策をどんどんやります。「公的機関の調停を経ずに争議行為はやらない」という平和協定を結んでいたので、何もできませんでした。そして組合執行部をやったヤツがみんな労務担当になりました。それが変わったのは臨時者の組合員化からです。

 今井正さんが中原ひとみさん主演の『純愛物語』を撮っていたとき、制作主任が「外から来た監督にわがままを言わせない」ってスケジュールを勝手に変えたことがありました。そうしたら今井さんが、「明日から僕は出てこないから」って録音部の助手に言って、休んでしまったんです。個人ストライキですね。会社は困ってしまって、制作主任を僕と同期の男に変えて、ようやく撮影が再開されました。雨上がりのシーンを宮下公園で撮っていて、一番下っ端のサード助監督の僕が、ほとんどひとりで水をまいたり、バックに見物人が入らないように四苦八苦していたら、同期のそいつがカメラの脇から「何もたもたしてるんだ、早くしろ」ってどなるのですよ。頭にきた僕が駆けよって「お前も人除け手伝え」ってやり返したら「何を」ってつかみかかってきた。結局まわりに止められましたがね、今井さんはニヤニヤ笑って「佐伯ちゃんも、ずいぶんやる方だね」なんて言っていました。この男はその後、東京撮影所の人事部から本社の労務担当重役に出世して、組合対策をやることになりました。 

 助監督と言っても、サードからチーフまでそれぞれ役割が違います。サードはカチンコを打ち、俳優を呼びに行き、セットの掃除をし、現場の雑用一切をやります。セカンドは翌日のスケジュールを組み立て、チーフは監督のそばで演出の補助をしながら、自分が監督をするときの準備をするのです。

 チーフになって田坂具隆監督につき、『はだかっ子』と『五番町夕霧楼』の2本をやりました。田坂さんはスタッフに対してはとても優しい人で、自分の撮りたいイメージを誰にでも判り易く説明し、指示してくれるので、みな嬉々として働きました。でも威張ったところなどひとつもないこの人が、会社側の圧力には決して妥協しない姿勢を貫きました。例えば作品が長くなっても、絶対会社にフィルムを切らせませんでした。田坂さんからは、映画づくりについて、沢山のことを学びました。 

 テレビの仕事に

 『どろ犬』をつくった後、前に言ったような事情で東映の仕事ができなくなりました。僕の立場を気づかってくれた友人のシナリオライターと田坂さんが、他の会社で監督ができるように取り計らってくれて、TBSの渥美清の『泣いてたまるか』を3本撮りました。やってみると、劇場映画とはつくり方が全く違う。まず日数が違います。1時間半ものだと劇場用なら長ければ1年半かける。普通でも30日から40日はかけます。テレビではそれを週に1本ずつ放映出来るようにつくっていくのですから…。主役はひとりしかいないんで、だんだんケツが迫ってくる。どうやって撮っていいか判らず、ほんとうに困りました。最初は13日かかりました。やっと間に合わせたというところです。

 30分帯ドラマといって毎日放映するのもやったんですが、前もって相当準備した上で、2班たてて監督ふたりでやるんです。『やどかりの詩』のとき、しまいには間に合わなくて、困った制作会社はもうひとり別の監督を立てて何とかしのいだそうです。そのうち早く撮るコツも覚えて、時間内にどんどん仕事をこなしていくことができるようになり、テレビ映画専門の監督としてあちこちで働けるようになりました。 

 以上「われらのインター」Vol.29より引用。(つづく