浦沢「平山(平山亨)さんは『がんばれ!ロボコン』(1974)をつくった人でそのときもう60歳ぐらいで、でも(スタッフは)平山さん的なこともやりたくない。平山さんもいい人で新しいことを好きにやってくださいと。
東映の中でも反逆的な人たちで、つくってるところが製作所っていって、プレハブでひどいとこ。みんな組合活動で会社のラインから外されちゃって、共産党員とか。デモとかそういうことばっかりやってるんだよ。よくこんな人たちがやるなと思うけど。佐伯(佐伯妥治)さんなんて東映でいちばん優秀な監督だったのに、デモに出たおかげで棒に振っちゃったんだ。東大(卒)で、いっしょにやってても優秀で、撮った映画も優秀だったのに干されちゃって。
『ロボット8ちゃん』(1981)の次のシリーズは『バッテンロボ丸』(1982)か。ホンはだんだんおれが中心に書くようになってくる。(他の人の脚本は)読まない、嫌いなんだ。大体つまんないし(一同笑)。その当時、東映で偉い作家がたくさんいたんだよ。威張っててほんと厭な奴ばっかりだった(一同笑)。
『ペットントン』(1983)で木村京太郎がバンダイを(スポンサーから)降ろしたんだ。バンダイはうるさいからさ。当時はあんまり知らなかったんだけど、バンダイはおもちゃの会社でおもちゃの工場もあるから、おもちゃがたくさん出ないと番組をつくる意味がない。『ロボコン』だったらロボットがたくさん出るけど、バンダイはそういうラインにしてもらいたいと。前田和也も木村京太郎もそれが厭だった。木村京太郎は他にもたくさんの作品に関わってて、バンダイも言うことを聞くんだよ。すごく当たってるアニメがあって、『キン肉マン』(1983)だったかな、そっちもやってるから。それで『ペットントン』からスポンサーをタカラトミーに回した。『ペットントン』ではおもちゃは全然売れなかった(一同笑)。それでも前田和也は初めて自分たちのやりたいことをやった感じになったんだよ、ロボットは出さなくていいと」
浦沢「『どきんちょ!ネムリン』(1984)は(主人公を)『ペットントン』から形変えただけ(一同笑)。前田和也もそのくらいの発想しかないんじゃないの。(女子向けなのは)序盤…でもないか。いままではぬいぐるみだったのが、そうじゃないのをやろうってことでネムリンになったんだ。ホンを書くのは同じなんだ。話は全部同じ」
『ペットントン』のヒットで、派生作品『TVオバケてれもんじゃ』(1985)も制作された。浦沢先生は『ネムリン』と同時進行で執筆。
浦沢「『てれもんじゃ』は大失敗。前田和也が調子に乗って、フジのゴールデンの時間を取ったんだ。そんなの無理だろうと。とりあえず取れたからやっちゃおうと。やんなきゃよかった」
浦沢先生は『もりもりぼっくん』(1986)までメイン脚本を務めたが、その次の『おもいっきり探偵団覇悪怒組』(1987)とではサブに回っている。
浦沢「おれのラインが1回終わったんだ。『もりもりぼっくん』の視聴率が悪くてその次(『覇悪怒組』は)プロデューサーが全部代わっちゃったんだよ、小林(小林義明)さんになって。メインは江連(江連卓)さん。あんまり覚えてない。小林さんは江連さんとやってて、どっかできっとつまんなくなってきたんだよ(一同笑)。変なのを書いてって言い出した。このころ、坂本さん(坂本太郎監督)はいちばん調子がよかったね」
つづく『じゃあまん探偵団魔隣組』(1988)ではメイン脚本が大原清秀。だが浦沢先生もかなりの本数を執筆している。
浦沢「(江連氏も大原氏も)ふたりとも無視して書いた(一同笑)。大原さんとはすごく仲良かったんだ。好きなように書いても平気だった。江連さんは理屈っぽいんだよね。芝居(演劇)の人なんだ。あんまり面白くない(一同笑)」
東映作品では、不コメ終了後にスーパー戦隊シリーズの『激走戦隊カーレンジャー』(1996)や『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)などを執筆。
浦沢「(戦隊シリーズは)いつもやってて同じだと思ってた。バンダイの村上(村上克司)さんっていう偉い人が全部デザインをつくってるんだけど、その人に「どっか違うんですか」って訊いたら厭な顔してた(一同笑)。ああいうの嫌いなタイプだったし。『カーレンジャー』は小林さんから呼ばれて、小林さんが中心の監督やるって話だったけど、すぐ逃げちゃった。オンエアはほとんど見てない」
『カーレンジャー』では芋羊羹が重要な役割を果たす。『ゴーカイジャー』の浦沢回はジェラシット(声:櫻井孝宏)が活躍。
浦沢「芋羊羹の言葉は覚えてる。何でもいいんだ、あんなものは。必殺技は演出が適当にやるから、脚本の書いてる量(字数)はすごく少ないんだ。でも値段(脚本料)は同じ(一同笑)。