――では原作者としては満足していらっしゃるわけですか。小説の愛読者としては伽倻子の扱いにやや不満もあったのですが。
李 もともと伽倻子の人間像は原作では十分に生きているとはいえないのです。しかし、ちょっと複雑な少女になっているんですね。原作はどちらかというと青年の挫折を中心に書いた小説です。まあ「私が捨てた女」という題の方がよかったと思うこともあるくらいです。
まあ僕が小説で描きたかったのは、虐げられた者がもっと虐げられた者をいじめてしまうというか、被害者が加害者になる――それはドストエフスキー的世界でもあるのですが――やりきれない深層心理でもあるのです。これを映像化するのは大変むずかしいし、そこまで入ろうとすれば三時間は必要とする映画になったでしょう。
いずれにせよ、この映画は原作をそっくりなぞったものでなく換骨奪胎して「民族」というところへアングルを向けてつくっている。しかも純愛をはばむものに的を絞り、人間的な普遍性を持たせているんですね。しかも八十年代が抱えている現代性に応えているものです。彼の仕事は創始者的な苦労を避けられないものだと思いますよ。お手本がないのですから。ジャングルを切り開く苦しさともどかしさがあったでしょう。だから大変だったと思いますね。
芸術というのは、永遠に完成しないものである以上、その追求のはげしさが芸術作品の価値の度合になるでしょう。この映画はその意味で素晴らしい創造性があります。芸術の本格的な要求に応えている革命性があるんです。そのことが重要です。
――私ども観客は、胸をゆすぶられたことは確かなのですが、またわかりにくい面もあったのです。
李 いや、それはあるでしょう。ああいう表現方法は、プロットを越えたものですから、観客の評価が分かれるのは、当然のことです。しかし彼は誰もつくれなかった大きな壺をつくって、いっぱいに水をたたえて抱えてみせてくれたのです。そこに大きな意味があるのです。
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- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/02
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〈サハリンの思い出〉
――ところで原作者として何かご不満な点はございませんか。
李 それはいくつかありますよ。たとえばあの、豚。
――豚? あ、相俊が豚小屋に入り込んで自分を内省する場面の。
李 ええ、あの豚は小さすぎる。映画では二十貫くらいのものだったけれど、五十貫くらいだとね、もっと迫力がある。豚が騒いでね、相俊が足を踏まれて、イテテとあわてて豚小屋から飛び出してきたりすればユーモアになった(笑)。
――そういえば先生の小説には豚がよく出てきますね。不器用ながら温かみの溢れる父親像を描いた『人間の大岩』にも豚のエサを集める話が出てきますね。
李 僕は豚がうらめしくてね。『犬走れ豚殺せ』なんてエッセーを書いたことがあるくらいです。
監督は予算が足りなくて、中豚にケチったのかな。大豚ってのは、たくさん啖うんですよ。エサ集めは情なかったなあ。
――おもしろいお話。小栗(小栗康平)監督も苦い顔なさるでしょうね。
李 いや、笑ってましたよ。僕は、映画を観ていて、やはり実際の家のことで自分で混同を起してしまうときがあるんです。父親の姿がちょっと違うなあ、なんてね。
映画では加藤武さんがみごとに演じていました。演戯としてはじつにいいのに、僕はつい自分の父親としてみてしまいますからね。僕の父は新聞を破って鼻をかむときなんか、もっとこそこそやってました。
――継母の姿が映画ではちょっとしか出てきませんでしたが『またふたたびの道』をはじめ、小説ではよく出てきて、私どもには共感できる女性像なのですが。
李 淋しい義母なんですよ。先日も手紙くれましてね。北海道にいるんですが、近く会いに行くつもりです。
――少年期をサハリンで過ごされたとのことですが、寒いでしょう。
李 それはもう。変な話ですが、溜め壺が凍ってウンチが盛り上がってくるんですから。それを斧で叩いて砕くんですよ。
――バザールではソ連人も混って、子どもたちは楽しそうな一面も描かれますね。
李 ええ、あの頃のソ連人は、敗戦国の日本人や朝鮮人が見ても、もっと貧相な身なりをしていた。極寒の地なのに靴下もはいてない女性もいましたよ。ドイツとの戦争で、徹底的に痛めつけられた結果でしょうか。
――『長寿島』で東京に住む「わたし」のもとに島から手紙が来る。八十歳を越してまだ生きている祖父の消息を知って、「頭をガンと殴られたような気がする」という場面がありますが。
李 ええ、その祖父も九十歳まで生きて、サハリンで亡くなりました。
――映画のシナリオをみますと、出だしのタイトルの背景に、先山(韓国の土まんじゅうの墓)がうつるようになっていますね。
李 墓標もない。土を盛っただけの、無名のまま自然に還った人たちの墓を監督は撮りたかったらしいんですが、実現しませんでした。難かしい政治的な問題がはばんでいたからでしょうね。
(以上、「ほんのもり」No.7より引用)
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