映画『泥の河』(1981)にて鮮烈にデビューし、『死の棘』(1990)や『FOUJITA』(2015)などで知られる小栗康平監督。その小栗監督が在日朝鮮人二世の青年(呉昇一)と日本人女性(南果歩)との恋愛を描いた秀作が『伽倻子のために』(1984)である。原作は李恢成の同名小説(新潮文庫)。
映画公開後の小栗監督のインタビューを最近入手したので、以下に引用したい。監督の発言はノーカットだが、インタビューアー(栗原陽子氏)の言葉は字数の関係上やや割愛している(用字・用語は可能な範囲で統一した)。
〈原作との出会い〉
――『伽倻子のために』という小説が発表されたのは十年余り前のことですね。当時から映画にしたいとお考えでしたのでしょうか。
小栗 最初に読んだのは僕がちょうど二十代から三十代にかかった、身動きのとれないようなよごれた時代でした。当時はまだ助監督でしたし、簡単に映画にしたいと心が動いたのではなかったと思います。それよりも、もっと自分の生き方の中で受けた励ましのようなものが核になって、だんだんと映画化を夢みるようになったんだと思います。
――李さんにお会いした時「これをやることで初めて映画監督になれる気がする」とおっしゃったそうですが。
小栗 『泥の河』で一本立ちしたとはいっても、被写体というものにキャメラを向けていく感じが、どこか許されているような甘さがありました。今度の仕事は民族の主体が違うわけですから、その根本的なところで、映画監督とは何者なのだと厳しく問いかけ続けてきました。李さんはなんの条件もつけずにまかせて下さいました。
――そういう意味でこの映画のタイトルは『伽倻子のために』となっていますが、李恢成のトータルの世界ともいえるのではないでしょうか。また小栗監督の『伽倻子のために』とも。
小栗 はい。ずいぶん大事なセリフやシチュエーションを李さんの他の小説からいただいています。本当なら許されざることですね。
――原作にこだわってみますと、画面に溢れる哀切感と美しさに十分感動するのですが、少しわかりにくいという不満が残るのですが…。
小栗 そうですか。では、わかるとはどういうことなのでしょう。以前大阪のある新聞記者と話をしていて、こういうことがありました。新聞の報道は「わかる」ということを目的としているというんですね。いま世界はこういう輪郭をもって、こういうことが起きている、という情報を提供する。それを受けとる側は、それで世の中がわかったということで安心する。反対に「わからない」ということはどういうことなのか。結局は自分というものを中心点において動かさない、それで否定され、不安にされるということです。
たとえば日本と韓国・朝鮮との国の成り立ち、関係はどうなっているか、何が起きているかということはわかっていても感じなければなにも動きません。在日朝鮮人に接してそのおかれた状況を知っていても、エモーショナルなものを受けとめなければわかったことにならない。そして感じることは考えることに発展していくでしょう。
テレビドラマに代表されるような、見た通り、よくわかる映画も否定はしませんが、そこで再現されている“時間”そのものに内的に対面することも忘れてはならないことだと思います。
〈歴史の喪失〉
小栗 いまの日本と日本人はどういう歴史の流れのなかであるのだろうかと考えます。在日朝鮮人との関係一つとってみても、日常において日本人の側はすっぽりとその歴史性を失っていると思います。その喪失は映画、映像についての感度の喪失と同次元で起きているように思えるのです。僕は映画でその二つを同時に問いかけたいのです。
――いま文字の世界にせよ映像の世界にせよ軽薄短小が先行している時代に、貴重なすばらしいお考えだと思います。(つづく)
(以上、「ほんのもり」No.7より引用)
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