広島・長崎の原爆から73年。戦争を知らない世代(筆者を含む)が跋扈?する時世になって久しい。筆者は戦後の1980年代に生まれたひとりだけれども、原爆を学ぶという触れ込みで見せられたのが80年代につくられた映画作品群だった。そこから現在へつづく流れを概観してみたい。
日本映画で原爆を扱った作品としては、新藤兼人監督『原爆の子』(1952)や関川秀雄監督『ひろしま』(1953)が先駆的作品として知られる。まだ投下の記憶が新しい時期の諸作は独特の生々しさがあるが、それから長い年月を経た80年代に原爆がテーマの映画が矢継ぎ早に発表されたのだった。
80年代前半の原爆映画は極めて直裁に(過激に)原爆の惨状を描き出している。
映画『はだしのゲン』(1983)と『はだしのゲン2』(1986)は広島原爆の古典的作品として知られる同名原作をアニメーション化したもので、原作者の中沢啓治が脚本も手がけて『共犯幻想』(宙出版)などの真崎守が監督した。学校図書館によく置いてある原作マンガも恐怖感をそそるものであったけれども、動く映像による地獄図も負けていない。主人公のゲンが取り落とした石を拾おうとした瞬間に原爆が落ち、言葉を交わしていた女の子は即死。皮がめくれて目玉の飛び出した人間たちが、炎の中を彷徨する。筆者は完成度に感銘を受けながらも、いまだ見直す気が起きない。
『はだしのゲン』の3か月後に公開されたのが、木下惠介監督『この子を残して』(1983)である。当時70代になっていた木下は絶頂期に比して演出力の衰えが隠せず、全編に渡って凡調なのだが、驚かされるのはクライマックス。
「どげん暴力や罵りば受けても、きっぱりと、戦争絶対反対を叫び通しておくれ。たとえ卑怯者と蔑まれたって、裏切り者と罵られたって、戦争絶対反対の叫びだけは守っておくれ。忘れてはいかん。1945年8月9日午前11時2分、長崎・浦上で何が起こったかを…」
劇中の時間は長崎での投下の瞬間にさかのぼり、浦上天主堂や住宅の大規模なオープンセットが爆発する。悶絶する人びとの姿に峠三吉や原民喜の詩に曲をつけた歌声がかぶさり(木下作品には頻繁に歌が流される)凄絶さに圧倒された。
地獄のようなの場面をラストに持ってくるという卓抜な構成は、脚色の山田太一のアイディア。「戦争絶対反対を叫び通しておくれ」という長台詞は木下によるものだという(長部日出雄『天才監督 木下惠介』〈論創社〉)。
また学校の巡回上映で頻繁にかかった人形アニメ映画『おこりじぞう』(1983)が制作されたのもこの時期で、先述の2作ほどではないけれども主人公格の幼い女の子の最期を描いていた。原作の童話はごく短いスケッチふうであったが、映画は女の子を中心とした構成でより強烈なものとなった。
80年代前半は冷戦が継続中で、ひとたび核戦争が起これば人類みな死に絶えるという危機感の強かったことは想像に難くない。そしてまだ戦争体験者が多く生きており、豊かな時代になったからこそ原爆の惨禍を語り継がねばならぬという使命感も根強かったことだろう。SFファンタジーの分野でも、核によって人類の滅亡は必至であると説諭するかのような作品が見受けられた。
80年代後半のバブル期に至ると、傾向に変化が生じた。黒木和雄監督『TOMORROW 明日』(1987)や今村昌平監督『黒い雨』(1989)が送り出されており、前者では投下1日前の長崎での静かな生活が、後者では投下後の広島で生き延びたはずの人びとがやがて病んで命を落としていくさまが描かれる。2本とも秀作だが直接的な残虐描写はやや減じ、企画の新味を狙うようになってきたのが伺えた。新藤兼人監督が劇団・櫻隊の原爆病に倒れていく実話を映画化した『さくら隊散る』(1988)は瀕死の登場人物たちのシーンがおそろしく、80年代的な苛烈路線の最後の狂い咲きと言えようか。(つづく)
【関連記事】虐殺の瞬間・『新藤兼人 原爆を撮る』