〈日本映画の現状〉
小栗 映像の表現というのはいうまでもなく近代のものです。シネマトグラフという見世物から活動写真となって娯楽として生活に密着してからまだ日も浅い。その中で作家の表現として、人の生き方とか感情を伝えるものとして成熟もしてきました。
一方、テレビとかビデオとかの出現によって――それだけではないのですが――娯楽としての映画は産業としての衰退を始めました。そういう歴史的状況の中での映像表現というものを、いま創る側もみる側も考えてみなければならないと思うのです。
先日アフリカの監督と話し合う機会がありました。映画はヨーロッパで生まれたものです。そのヨーロッパはアフリカを植民地化することで、産業も文化も育てたのです。アフリカが植民地支配から解放されて、映画を所有するとき、我々はヨーロッパのあと追いをしません、と彼らは明快にいうのですね。日本人は、そういういい方でいったら、どんな歴史をもってどんな表現を追い求めているのでしょうか。
――私たちは観客としての感度をもっと研ぎすまさなければいけませんね。
小栗 全国いっせいに上映されてぽっと消えてしまうものがあってもいいでしょう。けれど、なかなか届きにくくても、三年も四年も、もっと長く忘れられない映画があってもいいと思います。
――ある雑誌に、北海道からこの映画をみるためだけに飛行機で東京まできた人の話が載っていました。六万いくらの映画代だったけど、大満足して帰ったそうです。私も二度みましたが、もう一度みたいと思います。
小栗 どうしてなのでしょう。教えて下さい。二度目はどう違うのですか。
――一度目はいろいろな問題が投げかけられて胸の中を掘り起こされ、緊張のしつづけです。二度目はちょっとした場面の持つ意味がわかってきますから深く響き合ってきます。それに主人公の青年の雰囲気に、どうしようもない人間の根源の哀しみを感じて酔わされます。
小栗 彼は独自な存在感ですね。
――伽倻子がちょっと美しすぎる気もしますが。
小栗 いや、いいんじゃないですか。
〈映画と小説の違い〉
――小説のある部分を大きくカットされてもいますね。前作『泥の河』の最初の部分で原作に出てくるお化け鯉をカットされましたし、この映画でも原作の、伽倻子の汚れて相俊を拒否する女になってしまう場面をカットなさってますね。何か意図がおありなのでしょうか。
小栗 いえ、べつに二つは共通した何かということではありません。文字表現と映像表現は自(おの)ずから違うでしょう。
文字で「大きなお化け鯉」といった場合、その大きさは読む人それぞれによってずいぶん違うでしょう。しかし、映像は形のあるものですから限定されます。だから表現も違って当然でしょう。『伽倻子』の違いは、そのうえに書いた人と撮る人間の民族の主体が違うのです。
――よくわかりました。で、この映画の場合、李恢成さんの幾つかの小説を小栗監督が吸収して紡ぎ出すという方法をとられたわけですね。だからこの青春の美しい恋愛の破綻も、原作にある伽倻子の女としての複雑さはカットされて、民族の問題にしぼりこんだわけなのですね。
小栗 自分のよって立つところをどこに探しあてるのかということだろうと思います。
――ところで、ずっと独立プロでお仕事をなさっておられるということですが。
小栗 映画のつくられ方はいろいろあるわけですから、あくまでケースバイケースだと思いますが、僕は僕のやり方で製作するつもりです。
――厳しい面もあるでしょうが、それだけに意味の深いことですね。
小栗 大阪は一月末に終りました。春に、札幌、名古屋が始まります。
――こんなすばらしい映画をみられない地区にいる人はさぞ口惜しがっていることでしょう。一日も全国にひろがって、一日でも長く上映されますことを願っております。
小栗 ありがとうございます。
(以上、「ほんのもり」No.7より引用)
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