『宮崎駿の〈世界〉』(ちくま文庫)や『山田洋次の〈世界〉』(ちくま新書)などで知られる批評家の切通理作氏は『怪獣使いと少年』(洋泉社)や『怪獣少年の〈復讐〉』(同)など特撮作品にも造詣が深い。その切通氏が2014年に発表したのが、映画『ゴジラ』(1954)や『空の大怪獣ラドン』(1956)、『ガス人間第一号』(1960)の監督・本多猪四郎を論じた『本多猪四郎 無冠の巨匠』(同)。
今月、京橋にてSF・怪獣映画のポスター展があり、切通氏のトークショーも行われた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
ぼくは1964年生まれで、キングギドラがデビューした年です。物心ついたころには東宝チャンピオン祭りがやっていて、ゴジラを中心にテレビの子ども番組を映画にして。ゴジラの新作を春にやって、それ以外は古いのをやってました。名画座でなくても特撮映画の代表作を見ていて、ある意味幸福な少年時代。混乱したのは『ゴジラ対へドラ』(1971)や『ゴジラ対ガイガン』(1972)ではゴジラが正義の味方と言いますか、侵略者と戦っていて、でも60年代のでは悪者。ぼくが小学4年生のときに初代の白黒の『ゴジラ』がテレビでやったんですが、ゴジラが熱線を吐いて鉄塔がアメのように曲がるというシーンがありました。そこで父親が「これはほんとはカラーなんだぞ。綺麗で真っ赤になって溶けてた」と言う。うちは物持ちが良くて『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)の直前にカラーテレビになって(一同笑)。あれは白黒じゃ悲しい。ぼくは父の言葉を信じ込んで、でもあれは最初からモノクロの映画なんですよね。『モスラ対ゴジラ』(1964)でも真っ赤になって溶ける場面があって、父はそっちを見たのか。でも白黒の時代は『カルメン故郷に帰る』(1951)があったくらいで、カラーの概念も浸透してないですから。カラー全盛のときにモノクロを見るとモノクロだと思うけど、モノクロしかない時代には頭の中で補完してカラーにして見ていたのかなと思いました。
最初のゴジラは伝説の映画として聞いていて、親もあれは怖かったと言っていたし。子どものころのはチャンピオン祭りでしたから。反戦映画のような側面もあって、主人公と言ってもいい科学者(平田昭彦)が最終兵器の秘密を持ったままゴジラと心中して死んでいくというのも大人が真面目に話していて、4年生で見たときもほとんど知っていて知った上で見ていましたね。高校生で池袋の文芸坐でも見て何度も見ているんですが。
ゴジラは初の本格的な空想特撮映画で、ミニチュアの町を壊していくのは初ですね。アメリカの『原子怪獣現わる』(1953)は放射能の影響で恐竜が甦って都市を襲う。それを見た上で決めたのではなくて、そういう映画がアメリカで評判になっていると聞いて企画されたんだと思います。『原子怪獣』が『ゴジラ』と大きく違うのはストップモーションアニメ。人形を動かして撮影するという方法でつくられました。特撮を統括する円谷英二さんが最初はストップモーションアニメで表現するというのも検討されたようですけど、都市の破壊でストップモーションというのは時間がかかる。ストップモーションアニメで恐竜が出てくるのはそんなに街に来ないし、出てきてもちょっと破壊してゴジラほどではない。着ぐるみに人が入ってぶち壊すほうが力強い。口から白熱光を吐いて背びれが発光する。これでゴジラのキャラクターが決定的になって、アメリカでもヒット。アメリカのバイヤーが買い付けたとっかかりは、背びれが光って火を噴いて鉄塔が溶けるシーン。それで買おうと決めたそうです。アメリカのキングコングは熱線を吐かないし、ビルによじ登る。その時点で、人間よりでかいけどそれほど大きくない。ゴジラは破格の怪獣で、アメリカの人はウルトラマンよりゴジラが好きですね。
監督の本多猪四郎さんは監督になって5年目です。円谷英二さん、プロデューサーの田中友幸さんとディスカッションして、皮膚感をどうするか。ワニみたいにするのか。美術の渡辺明さんが梅干しの種がいいと言ったという逸話を中野昭慶さんが語っています。ぼくも皮膚感が決定的だと思っていて、張りぼてや着ぐるみの文化が日本にあった。(つづく)