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切通理作 トークショー “日本の怪獣映画 本多猪四郎から現代・未来へ ” レポート(2)

 ゴジラ』(1954)の企画は、いちばん最初は撮影所の重役の森岩雄さんが、でかいものが東京をめちゃくちゃにするものと言ったと本多(本多猪四郎)さんが証言しています。恐竜みたいなものはどうだということで、香山滋さんに原作を依頼して。小説も2バージョンありますが、これは映画版をもとにしてノベライズで原作は香山さん自身が書かれた「G作品検討台本」です。いくつか本に収録されてます。

 怪獣ものは出てくる前に予兆がある。普通の天変地異じゃないってことで科学者が来て調べるうちに、最初はしっぽが映るとか。最初の『ゴジラ』では白熱光を浴びる人間の姿とか、大戸島で嵐に上陸する足元とか予兆があって、かなり経ってから本体を現わす。そのセオリーは初代『ゴジラ』が確立したものです。最初はUMA、未確認生物みたいな位置づけで、いるのか判らない。やがて出てきた瞬間の皮膚感は大きい。皮膚感があるといるように思える。 

 ゴジラも何本かつくられていくうちに約束事ができているせいなのか、『モスラ対ゴジラ』(1964)とかのころは(円谷英二特技監督が)着ぐるみのゴジラをいろんなアングルから撮ってる。着ぐるみを精巧につくっているんですが、ところが初代『ゴジラ』は、アップのシーンは手を入れるギニョール。丘の上に出てくるときもギニョールです。それで国会でゴジラを報告するシーンは絵なんです。劇中では写真ということになってて本物の写真を使わない。観客が見てたのと同じ構図で、ハイパーリアリズムの絵に置き換えて写真ということで説明してる。何でそういうふうにしたのかと考えると、絵には皮膚感が描き込まれてるんですね。テレビの画面でも判るくらいはっきりと。着ぐるみをいろんな角度から撮るという発想でなくて、そこは本多さんのセオリーがあるんじゃないかと思います。

 『空の大怪獣ラドン』(1956)ではラドンが飛んでくると衝撃派で屋根瓦が飛んだり、台風のような被害が起きる。阿蘇山の麓でアベックが、ラドンが通過しただけで死んでしまう。ぼくの『本多猪四郎 無冠の巨匠』(洋泉社)の中にも写真を入れたんですが、ブロマイドとしても売られていて。子どものときにテレビで見たばっかりで、あれこんな場面あったかな。スチール用のコラージュなんですね。映画では何を見たのか判らないまま死んでしまう。カメラのシャッターが見えていて黒い影が映っている。『ゴジラ』にも出ていた平田昭彦の科学者が、翼の角度が恐竜図鑑のプテラノドンに一致してるとか言う。一致してないっていう突っ込みもあるんですが(一同笑)。その説明のときに田島義文さんが言い慣れない感じで「プテラノドン?」(一同笑)。そこはリアルで、ぼくは好きなんですけどね。それで段取りをしてから、ラドンが福岡に降り立って全貌を現す。

 出てくる前に、ネッシーの写真とかコナン・ドイルが好んだ妖精のとか、写真を撮る。キングコングの原点になった『ロスト・ワールド』(1925)でも残された絵に恐竜が描いてあって、絵とか写真に記録されてほんとにいるのか判らない。探求するうちに天変地異があって現れるというの(プロセス)が大事。それを築き上げていったのが本多さんたちですね。最近はスマホで鮮明な写真も撮れる。そうするとアプローチも違ってくる。ギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』(2014)は、ゴジラかと思わせてムートーっていう違う怪獣が出てくる。ムートーの声の波形から推測する。そうやって実態に迫り、満を持して怪獣が出てくるというつくりは踏襲していますね。 

 子どものころに昆虫図鑑や植物図鑑と同じシリーズで怪獣図鑑があったんですね(一同笑)。いまから考えるとおかしいんですが身長や体重、出身地が書いてあった。足形もあってぼくは本気にしてたんですが、実は着ぐるみについてないみたいで、出版社の人が何種類も一生懸命考えたとか。大伴昌司さんの怪獣内部図鑑みたいな、工場みたいなタンクが中にあったり。ああいう怪獣文化がかき立ててくれたものがあって、そういう出版物で補完されたものがあったと思います。大伴さんは円谷プロに出入りしていて実際の設定を意識しながらつくっていったと思うんですけど。着ぐるみで撮られているのは幼稚園のころから知ってましたが、足形や内部図解があるとそういうのがあると思ってしまうし。ほんとにいないと判っていても、いろいろ写真を集めたりしたいという気にさせる。怪獣映画のつくり方がそうなっていて、写真とかから手掛かりをつかんで実態が現れるという順番になっていると思います。

 ぼくの『本多猪四郎』は本多さんの特撮映画の特徴を1章ごとにテーマにしながら初代『ゴジラ』にフィードバックしています。それは最初の『ゴジラ』にいろんな要素が全部入っているからですね。予兆もあるし、科学者の孤独性は『地球防衛軍』にも出てくる。科学へのアプローチがあって、『地球防衛軍』(1956)の宇宙人はわれわれの科学が発達したらこれくらいは、という未来人なんですよ。絶対零度になったら物体が浮くとか、そういうことはないけど、そういう能力を持ってるという説明がある。その仲間入りをしたいと願う科学者が、宇宙人が地球を侵略しようとしてると判ったときに翻意して犠牲になっていく。宇宙人も放射能で自分たちの星が滅びかけていて地球に来ている、同じ人間です。科学の正負の面が出てくるのが本多さんのひとつのスタイルです。(つづく) 

 

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