私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

那須博之の志と死・『ビー・バップ・ハイスクール』『紳士同盟』『デビルマン』(2)

 『紳士同盟』(1986)の原作の小林信彦那須博之とは意気投合したようだった。

 

小林さんとは『紳士同盟』のキャンペーンでも一緒だったし、書かれた本を何冊かいただいて。今度、こんなギャグをやったらいい、なんて話をいろいろしてくれるんですよ。本に書いた以外のギャグで、向こうのTVでこういうのを見た、日本で誰もやっていないから使ったらどうだとかね、けっこう教えてくれるんですよ。小林さんてどこかギャグに命賭けてるようなところあるでしょ。そういう精神で、ボクなんか感動しちゃうんですね。かなり刺激になりました」(「キネマ旬報」1987年4月上旬号)

 

 何かと偏屈な印象の小林も、那須については好ましく記している。

 

しかるに、那須さんは、いわゆる〈ひとことのコメント〉ができない人だ。製作発表の記者会見のときから、なにを言っているのか、さっぱりわからなかった。ぼくだけではなく、みんながわからないと言っていた。実に単純な談話なのだが、明快ではないのである。

 映画のキャンペーンで札幌へ行ったとき、ぼくは初めて、那須さんと映画の話をした。

 〈日本の娯楽映画を香港映画の水準にまで高めたい〉という意見を、那須さんが「キネマ旬報」で述べていたのは知っていた。スピルバーグやゼメキスよりも、まず、香港のパワフルな娯楽映画を、というのは正解である。インテリどもがスノビズムとして語る映画ではなく、せめて『霊幻道士』のレベルの映画を作りたい、そして、お客を集めたい。そのためには、スピーディーなアクションんとギャグが必要だ。——まあ、そういったことを語ったのだが、那須さんが最初にショックを受けたのが、ゴダールの『気狂いピエロ』とは意外であった。ゴダールで映画に目ざめて、とりあえず、香港映画をめざす、というのが、実に現実的で、面白い」(『コラムは笑う』〈ちくま文庫〉)

「(『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズは)二本見たが、二本目でマドンナ役の中山美穂がオりてしまい、裏では大変な騒ぎになった。

 どうしてそんなことを知っているのかといえば、ぼくの原作による『紳士同盟』(一九八六年)のキャンペーン中で、那須監督やスターたちと、北海道から九州まで移動していたからである。

 東大経済学部卒といわれても、信じられない肉体で、しかもサングラスをかけていた。

 旅先で酒を飲んでいるとき、突然、こう訊かれた。

「『英雄本色』って映画、耳にしていませんか?」

「いや…」

 監督の話では、香港で大ヒットしている映画で、どうしても内容が知りたいという。

 『英雄本色』は、翌年、日本でも公開された『男たちの挽歌』である。

 那須さんの理想の映画は、ああいうものだったのかも知れない。話の面白さではなく、アクションで見せる映画がヒットする、と信じていた人であった」(『映画が目にしみる』〈文春文庫〉)

 だがチャレンジングな『新宿純愛物語』(1987)の興行的失敗が災いしたのか、90年代以降の那須は映画を撮る機会が次第に減っていき、『あばれブン屋』(1998)などVシネマなどを主に手がけた。くすぶるというと失礼だけれどもヤンキー物を中心とした小規模アクション系専門のような立ち位置で、日本の娯楽映画を向上させるという80年代の志から遠ざかってしまったのは間違いない。ちなみに筆者がリアルタイムで初めて見た那須作品はモーニング娘。主演の『ピンチランナー』(2000)だが、髀肉の嘆を託つ間に鈍磨したのか全編に渡って素人のような映像設計で目をおおった。

 やがてこの監督が永井豪原作『デビルマン』(2004)を撮ると耳にして、何故起用したのかと会社側のセンスを疑ったけれども、依頼ではなく那須の持ち込んだ企画であったらしい。盟友の金子修介が『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)や『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)などで成功したゆえに那須も特撮エンタテインメントを唐突にやりたくなったのかと筆者は邪推したが、『ブレードランナー』(1982)や『ターミネーター』(1984)、『エイリアン2』(1986)に影響されたという若き日の発言を思い返せば一貫性は十分にある。80年代の野心を果たす、久々の晴れ舞台とも言えた。

 当時は『キューティーハニー』(2004)や『CASSHERN』(2004)、『鉄人28号』(2005)などSFマンガ・アニメの実写化がバブル状態で、企画は実現する。だが長い不遇時代を経てしかも特撮に不慣れな那須は現場での采配が難しくなっていた。美術の内田哲也・大庭勇人・寺井雄二は証言する。

 

内田 僕もスタッフに親しい人間がいたんですが、打ち合わせになんないって言ってましたね。絵コンテで仕事を分けて、きっちり、カットごとにやってかないと、絶対ああいうのは出来ないから。原田(原田昌樹)さんは、特撮と、CGと本編とどうやったら出来るのかがわかってるけどね。那須監督は絶対に絵コンテ通り撮らない、現場で考えるっていう人。

 大庭 絶対できないですよ。特撮はそれじゃ。

 寺井 ロケハンで那須監督が見つけてきた、廃工場みたいな、炭鉱みたいなところに連れてかれたわけです。地下何百メートルなんです。トロッコでないと行けないんです。一回行ったら、戻って来られないんです。機材もね。下で待ってる人は上と連絡する方法がないわけ。でも「ここで撮影だ」って言い出して「絶対に出来ない」って話になって(笑)」(切通理作・原田昌樹『少年宇宙人 平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち』〈二見書房〉)

 

 1986年の「クランク・イン前に決めたことがすべて」で「それ以上のものはまず現場では出ない」という発言と矛盾する感があるけれども、いずれにしても『デビルマン』の現場では不和が生じた。野間詳令によると助監督の原田昌樹などスタッフは次々と離脱したという。

 

東映に行く用があった時に、原田さんに電話したんです。「今、向かってます」と。原田さんがいるもんだと思っているから。そしたら、「俺、辞めたんだよ」と。東映に行ったら、ウルトラの美術の寺井(雄二)さんもスタッフにいたんだけど、寺井さんも辞めるので、荷物をまとめていた(笑)。造型の若狭新一さんも「辞める」と。(…)内情は色々あるとは思うんですが、システムがうまく流れていかなくて。しかも原田さんは、合成も仕上げもよく知りすぎてるんでね。それが合理的に流れてなければ「危ない」ということはわかるわけです」(『少年宇宙人』)

 

 公開された『デビルマン』はストーリーをたどるのがやっとという悲惨な出来だった。ネット炎上の嚆矢とも言えるほどの不評ぶりで、惨憺たる結果を遺して公開の4か月後に那須は急逝する。彼の志は、無残な現実の前にいつのまにか潰えたのだった。

 金子は最近のトークイベントでも、日活時代にバイクで「じゃあな」と快活に去っていった那須をいまも思い出すと話している。