私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

飯島敏宏 × 白石雅彦 × 河崎実 トークショー “テレビドラマ50年を語る”レポート(4)

f:id:namerukarada:20180114155457j:plain
【木下プロ以後 (2)】

 映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』(1973)を撮ったのは、既に木下プロにいた時期だった。

 

飯島「『ダイゴロウ』は、半年間の企画を用意してお膳立てして。(その間に)映画を撮るんですと言ったら、木下さんの顔色変わった。木下さんは、ほんとは映画撮りたいから、ぼくも東宝って言えないんだよ(一同笑)。「劇場映画です…」「そう」って。脚本を置いていったら、タイトルが『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』でしょ。翌日電話がかかってきて、いい声だったよ。「きみって変な人だねえ」(一同笑)。あんなの撮るのっていう」

白石「だから(木下監督は)『ウルトラマン』(1966)、見てない。山田洋次は『ウルトラマン』見てるから偉いよね。

 木下プロの作品は素晴らしい歌がどの作品にも。木下惠介さんの映画も歌が豊富で、同じ特徴ということなんですかね」

飯島「木下忠司さんだね。作詞家としても素晴らしい。最初は役者でした」

河崎「飯島監督がやられる前の木下プロの『3人家族』(1968)がぼく大好きでした。(主演は)あおい輝彦、ジャニーズですね」

飯島「ジャニーさんと木下さんは仲良かった」

河崎「ああ(一同笑)」 

 やがて木下プロで、飯島氏は金妻シリーズを大ヒットさせる。

 

飯島「『金曜日の妻たちへ』(1983)は気が楽だったですよ。前の番組がひとケタで、編成が木下プロへ来て、それより下がりようがない。そのころ電通がF1、F2と視聴者を分類した。そういう主婦層をつかもうと。金曜日の夜に奥さまに見てもらおう。それで『金曜日の妻たちへ』。ぼくはこのタイトルは気に入らなかったけど、最後は編成の判断で」

白石「飯島監督は子どもに見せられないものはつくらないと決めたけど、『金妻』もころはもう大きくなったからと。でも不倫は(劇中で)1回だけで、家庭崩壊には至らない」

飯島「昼帯とは違う。木下プロであるから。それと予算的なこともあるし。あのころのTBSの営業にはこんなキャストでいいのかと。営業がスポンサーに行くと、役員は映画を見てない。奥さんやお女中さんが「若尾文子が出るの」みたいなことでOKが出る。「いしだあゆみは誰?」と。そういう方たちはご存じない。スターがいないと。ただ編成がキャストを握ってることはなかったです」

 

 シリーズは『金曜日の妻たちへⅡ 男たちよ、元気かい?』(1984)、『金曜日の妻たちへⅢ 恋に落ちて』(1985)とつづく。

 

飯島「2作目(の小西博之)はマッチョな人がほしかった。パート1は妻たちへだから、次は “男たちよ、元気かい?” というタイトルで始めたけど編成が金妻でやってほしいということで妥協してパート2。3作目はメリル・ストリープの『恋に落ちて』(1985)をやりたかったけど、パート3になって。常に新作のつもりでやってました」

白石「『月曜日の男』からだから、月曜日から金曜日まで(笑)」

 3作目の主題歌「恋におちて -Fall in love-」はいまも人気が高い。

 

飯島「『金曜日の妻たちへ』は第1作と第2作が洋物で、3作目は国産でいこうと思って。カレン・カーペンターにそっくりの声の子がいるってことで、小林明子。自分でピアノ弾いて、自分で作曲する。レコード会社は売れ線ですよって作曲家や作詞家を連れて来たけど、内容と合わないから、小林明子を貫いた。有名な作詞家は席を立って帰られましたよ。レコード会社は真っ青。湯川れい子さんが詞を書いてくれて、その詞もほんとはプッシュホンの時代だったんですよ。だけど「ダイヤル回して手を止めた」っていうのが『金妻』に合ってるから、絶対この詞でいきましょうと。ヒットしなかったら大変だったけど、抵抗なく受けてくれて」

白石「アナログはいいですね。デジタルは雰囲気が出ない(笑)」 

【その他の発言】

飯島「『泣いてたまるか』(1966)で渥美(渥美清)ちゃんとつき合ったとき、『男はつらいよ』シリーズの30~40作でお目にかかったころと違って、味がありました。国際放映で、フィルムで撮ったでしょ。テストは真面目にやる。ところが本番のカメラが回ると役者になる。ホースで水撒いてるところに(テストでは)まっすぐ入ったけど、わざと水にひっかかったりするの。初日に「監督、カットが早すぎる」と。判ったから、芝居を終わっても置いとく」

白石「カットかかる前に何かやろうと」

 

 『おとなの漫画』(1959〜1964)では青島幸男名義で台本も書いている。

 

飯島「TBSにアルバイト大好きな先輩がいてね、海水浴に連れてってあげると。それで逗子に行って日影茶屋に。「週刊クレージー」の脚本書いてくれと、それが宿賃(笑)。徹夜で書いて、翌日海水浴どころじゃない。書いたとき、作者名は青島幸男と書けと。青島さんを知らなくて、飯島だから青島にしたのかなとか」

 

 異色なところでは、松竹映画をリメイクした『思えば遠くへ来たもんだ』(1981)もある。古谷一行武田鉄矢の曲をカバーした主題歌のレコードも持参された。

 

飯島「木下プロである番組が中止で、穴埋め。武田鉄矢が(同題の)松竹映画に出て、これいける。『3年B組金八先生』(1979)のころかな。リハーサル室へ行って、歌をくださいと。古谷一行がやって」

 

 飯島監督が愛用する台本カバーは、エッセイ『バルタン星人を知っていますか?』(小学館)の表紙にもなっている。

 

飯島「これをつくってくれた方はもういらっしゃらない。若くして…。美しい方でしたけど。むっちゃんって言ってましたけど、黒澤明さんの映画の殺陣師・久世竜さんのお嬢さん。中野稔さんの奥さんだったけど、若いうちに亡くなられた。ほんとは鮮やかな色だったんだけど。『ホームカミング』(2011)を撮ったときも、このカバー使っていて」

 

 最後にまとめの発言。

 

飯島「実相寺(実相寺昭雄)にしても久世(久世光彦)くんにしても、テレビに力があったから才能が生かされた」

白石「飯島監督の現存する最古の作品がフィルム作品というのが象徴的というか、本来はフィルムの人だったのではないかと」